田沼意次はなぜ嫌われたか? | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

田沼意次が再評価されてるらしいが、当時の農民や町人からはひんしゅくを買ったかもしれない。

田沼の時代は「米価安の諸色高」であって、武士の俸禄である米の値段が安くて、醤油や塩や紙などその他必需品が物価高な状態だった。

 

推測だが、なぜ米価安になったかは、新田開発や生産技術の向上で米が以前よりも獲れるようになった。

だから供給過多だったと考えられる。

それは徳川吉宗による享保の改革の賜物だと思う。

諸色高は単純に江戸の人口が増えて、供給不足になったと思われる。

 

米本位制の幕府は年貢を取っても、安い値段にしか換金できないので、財政は逼迫する。

だから田沼は財政支出を減らして、収入を上げようとした。

 

その政策は多岐に渡ったが、どれも効果に乏しい。

先物取引なども行われたが、投機目的で行われ、ギャンブラーが増えた。

倹約令や上知令や国役普請は反感を買いやすい。

株仲間を推奨して税を取ったが、たいして税を取れなかったみたい。

享保の改革で商品生産も奨励され、諸色高で農民や町人は潤ってたが、そこに税をかけようとしていた。

御用金は、大坂の米市場から大量の米を買い上げ米価高を狙い、大名に貸し付けて利子収入を得ようとした。中間の商人が貸し渋りをし、破綻。

 

でもこれら、幕府の財政難のための政策で、身内のための政策なんだよね。

それで取れるとこから取るって感じ。

再評価していいのやら・・・

 

松平定信は、緊縮財政で大奥などの資金を減らしたりしたが、幕府収入を増やすことができなかった。

そう考えると、田沼意次は貨幣に目を付けた点は評価できるかもしれない。

印旛沼の干拓も東廻り航路を短くするためらしいし。

 

幕府収入を増やす手っ取り早い手段が貨幣改鋳だが、ほぼ純金の慶長小判や正徳小判を改鋳するのは効果が大きいが、改鋳に改鋳を重ねると悪貨になる。

慶長小判が一両=10万円だったのが幕末頃1両=3~4万円の価値になってる。

それでも幕府は信用があったから改鋳後も取引は行われた。

 

田沼意次の失策は、本草学の平賀源内を登用しなかったことかな??

高松藩が他への登用を許さなかったのもあるが、幕府の威光で取り立てることはできた。

商品作物を全国に広げ、年貢の代わりにすると安い米より価値があったと思う。

水田を畑に変えて減反+商品作物で米価上げて、さらに副収入を得る。

でも、幕末は飢饉続きで米の供給不足に陥って米価高騰したので、町人が困った。

それで打ちこわしが急増したのかも・・・

難しいね。