「どうする家康」第42話「天下分け目」を見ました。
1600年
7月11日・石田三成・大谷吉継挙兵
7月16日・毛利輝元、大坂城に入る。
7月17日・三奉行(増田長盛、前田玄以、長束正家)が「内府ちがひの条々」を各大名に送る。
7月19日・島津義弘、小早川秀秋ら、石田三成に味方する者で京都伏見城を攻撃開始。
7月21日・徳川家康、会津に向けて江戸から出陣。
7月24日・徳川家康、石田三成挙兵を知る。
7月25日・小山評定
7月26日・福島正則ら西上。
7月26日・前田利長が徳川に味方する。
7月29日~徳川家康の調略戦が始まる。
8月1日・伏見城落城。
8月5日・徳川家康、江戸に戻る。これより書状を活発化。
8月7日・伊達政宗・最上義光味方になってる。
8月8日・毛利方の重臣・吉川広家が味方になる。
8月12日・細川忠興、加藤清正に加増を約束。
ここから続々東軍に味方する者が増える。
8月23日・福島正則ら、織田秀信(幼名・三法師)の岐阜城を一日で陥落。
8月23日・徳川家康出陣。
8月24日・徳川秀忠本隊出陣。
9月1日・石田三成ら、大垣城にこもる。
9月6日・徳川秀忠、真田昌幸と交戦。
9月14日・徳川家康、赤坂入り。
って運びみたい。
書状の内容も、石田三成は徳川家康の不徳を書き、徳川家康は勝ったら加増することを書いている。
戦国大名は土地が欲しいみたい^^
んーーー徳川秀忠軍、足止め食らわんでも間に合わなかった様な気がする。
大軍が中山道。
険しい山道をどう考えても間に合わない気がする。
多分、岐阜城のあっけなさで予定が狂ったと思う。
石田三成も、大垣城で籠城戦やるつもりだったのか?
近くの南宮山には毛利秀元軍もいる。
関ヶ原に入って包囲戦をやろうとしてたのか?
徳川家康本隊が毛利の南宮山の前を素通りしたのも、石田三成の策略か?
でも、吉川広家と内通してなきゃ、徳川家康も素通りしないと思う。
多分、松尾山にすでに小早川秀秋軍が入っていたので、関ヶ原で決戦しようではないかと石田三成が挑発したのではないかと・・・
吉川広家を味方にしてる徳川家康はそれに呼応したのか??
常識的に普通にやったら徳川不利の布陣。
三方から万の軍勢が襲ってくる布陣だから。
来週、ついに「関ヶ原の戦い」だけど、それら経緯は描かれるのか??
秀頼を出陣させると言った淀殿の本心は??