「どうする家康」第41話「逆襲の三成」 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

「どうする家康」第41話「逆襲の三成」を見ました。

 

ウサギがすっかり狸になっておられた。

上杉景勝が神指城築城で戦を起こすのでは無いかと疑いがかけられた。

そして徳川家康は何度も上洛要請をしたが、上洛してこない。

さらに直江状で徳川家康を罵る書状をつけてきた。

たまらず淀殿の許可をとって、いや、淀殿が行けと言ってますね。

上杉征伐に向かうことに。

 

そこで三成の挙兵を読み切っている家康は京都伏見城に誰か腹心を置かなければならない。

なぜ腹心かと言えば、徳川のために討ち死にしてくれる人。

ここらをどう描くか気になってたが、家康は守り切れと言ったが、鳥居元忠は3000の兵で十分と死を覚悟した。

この辺りで三成との戦は決定してたが、いざ上杉征伐に向って京・大坂を留守にして関東に行くと、三成だけでなく毛利輝元や宇喜多秀家など五大老の面々も三成方に参戦。

三成も大坂から莫大な資金を受け巨大勢力になろうとしていた。

 

淀殿が三成、家康双方にけしかけ、戦になるよう操っている。

そして、西で三成や毛利、宇喜多など大きな勢力になっており、家康ら討伐軍は、北の上杉と挟まれる形となる。

 

徳川家康は淀殿にはめられたと言うことか!

 

でも、まだ疑問は残る。

いざ関ヶ原の合戦が起こると、毛利輝元は大坂城から動かない。南宮山に布陣した毛利秀元も吉川広家によって簡単に足止めされる。

結局毛利は戦いに参加してない。

これが小早川秀秋の裏切りに繋がるので結構大きな出来事。

淀殿は三成を勝たせるつもりでは無かったのか?

大坂城の毛利輝元とはどう言う関係だったのか?

この謎が知りたい。

 

関ヶ原の合戦は徳川家康ら東軍が勝ち、論功行賞を取り仕切り、圧倒的な直轄領と親藩・譜代で多くの土地を占めることに。

西軍に味方した毛利、上杉も大幅な減封。

1603年に征夷大将軍にも任じられ、実質天下を手にする。

大御所政治も勉強不足で分からないが、1614年までの11年で、大坂の陣で淀殿に味方する大名は皆無。

ほぼ流罪組や牢人衆をかき集めて編成された。

それでも兵力10万集められる財力はあったようだ。

豊臣大坂城に10万の兵。これは難攻不落!

でも徳川軍は裏切り者も出さずに1615年に落城させた。

やはり11年の大御所政治が気になってきた!

どうやって盤石な体制を築いたか?

藤堂高虎ら築城の名手が、豊臣大坂城のような難攻不落の城を多く築いて大坂を包囲したからか?

江戸城を豊臣大坂城以上に難攻不落にしたからか?

実際江戸城周辺は親藩・譜代で固められて近づけないと思う。

謀反の意味無しと考えが支配的になったのか?

関ヶ原後も気になってきた!

 

面白くなって来た^^