なぜ江戸時代の譜代大名は小領主だったのか?という問い | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

 

 

この記事では秀吉が文官を好み、家康が武官を好んだとありますね。

多分、家康が生きてた頃はまだ豊臣家がいたから。

豊臣を滅ぼすまでは武官の力が必要だったと考えられる。

 

秀忠・家光の時代は監視社会だったかもしれない。

幕藩体制は大名は藩主となり、その与えられた石高の藩をある程度自由な裁量で統治できた。

自由と言っても、うまく藩主が横暴だったり、統治できなければ、ガンガン改易(お家お取り潰し)をしていった。

大名に統治というモノを強烈に意識させた。

 

また、改易されたら牢人も増え、社会問題になる。

だから官僚として様々な役目を作った。

出世によって扶持が増えていく仕組み。

1000石でも江戸初期では1億円の給料であった。

武士は官僚になれば、高給取りである。

官僚も奉行になれば、天領400万石を治め、3000石の扶持をもらえた。

 

そして戦がなくなり、新田開発も行い、検地をすれば石高が上がる藩も出たかもしれない。

そう言う譜代大名の藩主が幕府中枢の仕事を担っていく。

 

徳川家光の異母弟だが譜代大名で藩政で名を上げ、家光の側で政治を補佐する役目をいただいた保科正之が、4代家綱に代替わりして幕府政治を取り仕切り、武断政治から文治政治に切り替えていく。

武士が扶持をもらってるのは生産してる農民のおかげだから、庶民を大切にしようと言う気風が生まれてくる。

そこで新田開発や農業技術の向上がなされていった。

 

5代徳川綱吉は幕臣に徹底して儒学をたたき込み、仁政を行うことを目指した。

この頃から文治政治のプロが生まれるようになる。

 

譜代大名はなぜ小領主かと言う問いは、幕政という出世街道を残すのと、クーデターはとても起こせないと思わせるためではないかと思った。

この辺、まだ漠然としてるから、考える余地があるなあと思った。

家康の組織のままでは260年も続かなかったと思う。

代が替わってもより良いように変化させていったから、260年続いたと思う。

それでも8代徳川吉宗の頃がピークで、その後は飢饉と外圧と財政赤字によってだんだんガタガタになって行くけど・・・

江戸幕府の肝は4代5代にあるような気がする。