PHP新書:河合敦著:「徳川家康と9つの危機」を読んでます。
徳川家康の嫡男:徳川信康が切腹に追い込まれた事件を真っ先に読みました。
酒井忠次のこと、信康の素行のこと、武田氏に通じたことなど諸説あるようです。
時代背景としては、西は盟友・織田信長、東は武田勝頼に挟まれる三河・遠江のみ領有する徳川家康。
三河の岡崎城主に徳川信康を置き守りを固める。
徳川家康は前線の遠江・浜松城で武田勝頼と攻防を繰り返す日々。
で、この大国武田氏を打ち破らないと国は戦乱で疲弊していくだけの日々。
だから自分は信康が武田氏と和平を模索したのではないかと考えた。
だが、1578年上杉家による御館の乱で北条氏・徳川・織田同盟ができている。
武田勝頼は北条氏を裏切ったことで、北条と敵対し、敵を増やした。
形勢は徳川に向きそうな時に、勝頼が信康をそそのかし、家康を挟み撃ちにすることは考えられるだろうか?と。
謀反の疑いが無ければ、切腹まではいかない。
だから謀反の疑いの理由を探った。
1579年5月、秀忠が誕生している。
信康が嫡男で、秀忠は三男。
跡目は信康だと思える。
しかし、徳川家康は秀忠の母:西郷局を溺愛してたようだ。
西郷局は美人で性格が良かったらしい。
正室の築山殿は嫉妬した??
実際、築山殿が先に殺害され1579年10月徳川信康も切腹となってる。
秀忠が跡目を継ぐようなことがあってはならぬと築山殿が暴走した可能性を自分は第一としたい。
そして三河ごと武田氏に寝返りを画策したのでは?と。
尾張と遠江は一気に危機的状況になる。
だから信長、家康両者一致して、成敗したと。
徳川家光の頃も世継ぎ争いがあったが、大御所家康の長男継承はこの反省かなと思って。