英雄たちの選択「菅原道真」 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

英雄たちの選択「菅原道真」を見ました。

 

いきなり考察から。

菅原道真が怨霊になった話は江戸時代の創作ではないかと思った。

菅原道真は存在したが、左遷されてもそれほど怨んでいなかった気がする。

 

道真が唯一主人としたのは宇多天皇であって、宇多天皇の息子:醍醐天皇とは不和だったと思う。

譲位して出家した宇多法皇の配慮で道真は右大臣になったが、醍醐天皇や左大臣の藤原時平にとってはうっとうしい話だったと思う。

それで妬む公家も多く、社会的排除が行われ、道真は太宰府に流された。

道真自身も右大臣に執着してなかったが、生真面目で醍醐天皇や藤原時平に嫌がられたのでは?

だから、国に尽くせないがこれも時勢だと諦めていた気がする。

 

そう考えるのは、この時代が荒れていたと言う記録が見つからない・・・(そういうのはお金積まんと分らんかもですが・・・)

真剣に国政をやらなくても務まった時代、もしくは道真がたいていのことは解決してしまっていた。

それで次世代の醍醐天皇や藤原時平の代は泰平の世を謳歌していた。

泰平の世は家柄が身分を決めて、能力があっても身分の低い家の人はあまり重宝されない。

そんな性質があるような気がしてきた。

 

だとすると、家柄の良い藤原家と誠実に学問を修め国政に役立てた菅原道真、どちらが良いか問われた時代、江戸時代後期に道真信仰が広まったのではないかと思った。

道真死去が903年、天皇御所の清涼殿落雷が930年、当時は道真の怨霊とは考えにくい気がする。

だとすると、コツコツ学問を修養した人を尊敬に値する人と崇めたのは、江戸時代ではないかと思った。

江戸時代は寺子屋ブームや旅ブームもあったし。

全国に天神様を祀ってる天満宮が12000社も出来たのは江戸時代だと推測。

儒教の時代も道真とマッチする。

 

草莽崛起で学問に励んだ吉田松陰も仮名を使わず、漢文を書いてたのでは?

これは想像だけど・・・

庶民や下級武士の間で武の楠木正成、文の菅原道真が流行ったのかなって。

 

資料持ってないので、ほぼ想像ですが・・・