英雄たちの選択「日米開戦」 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

英雄たちの選択「日米開戦」を見ました。

 

1941年12月8日までの1年弱の話でした。

 

1年見ただけでは何も分からんので、過去も交えて考察します。

4月に日米諒解案が出てきます。

国土保全の案なのに、外相の松岡洋右が蹴ります。

松岡洋右は日独伊三国同盟と日ソ中立宣言をまとめた人。

それをひっくり返されるのは許しがたかったのでしょう。

 

ただ日米諒解案を蹴ったから、後の政府は苦労します。

6/22独ソ戦が始まると、北進してソ連を叩く、南進して仏領インドシナに侵入して資源を得るの二つの選択肢が出てきます。

このころドイツの敵は西のフランス・イギリス、東のソ連になります。

アジアの植民地:英領マレーと仏領インドシナは手が回らなくなります。

また日中戦争最中で中華民国の国民党党首:蒋介石への支援も緩みます。

 

ここでも足並みはそろっておらず、陸軍は北進のため満州に80万の兵士を送ります。

海軍は南進の準備をします。

 

この満州権益が陸軍を凶暴化したと思われます。

日清戦争で勝利して中国利権を手にし、さらに日露戦争で満州鉄道の利権を手にした。

義和団事件で満州占領し、ついには満州国建国。

ノモンハン事件でソ連に敗れ、多くの血が流れた。

 

この一年の政府の弱腰は、1932年の五・一五事件では海軍将校が犬養首相を暗殺。

1936年には陸軍将校によるクーデター、二・二六事件で岡田啓介内閣が襲撃されてる。

この事件で高橋是清が死亡している。

明治維新と同じく軍の意向に反する者には天誅っていう感じ。

これで、軍の発言力が暴力によって強まった。

 

仏領インドシナに侵攻して、アメリカに石油を止められたのも、国際協調を目指した人を襲っていく軍の影響力が大きいと思われる。

 

確かにロンドン軍縮会議で米英に比べて、軍の力を抑えられていて、米英は植民地を持っても、日本は持っちゃいかんみたいな、上から目線がある。

それが反米英に繋がった節もある。

でもやっぱり工業力の差でアメリカには勝てないので、そこは認めるべきだったと思う。

作家:永井荷風も「米英は日本の師」と表現したように、富国強兵が間違った方向に行ったと思う。

多分、まだ昭和初期まで武士の時代だった。

いくら廃刀令が出ても、心は武士だった・・・

 

木っ端みじんにやられて、アメリカの占領下に置かれて、初めて民主主義のイロハを教わったのではないだろうか?

今の日本になるために必要な敗戦だった。

不謹慎かもしれないが、犠牲となった人に敬意をこめて、本当にお国のためだったと感謝の気持ちです。

 

 

もうひとつ、心理学についても勉強になりました。

国家事業を中止するとき、心理的負荷が大きい。

と、プロスペクト理論で勝ってるときほど慎重になり、負けていると大胆な考えを持つ。

対中国外交について考えさせられる。