英雄たちの選択「京都新城」を見ました。
豊臣秀吉が1597年、藤原道長の土御門邸跡が本丸の場所、つまり京都御苑の中に城を建てた。
城と言っても天守は無いみたい。
豊臣秀吉の本能寺の変後は、、、
1585年、関白になる。豊臣姓を賜る。
1589年、鶴松が生まれる。
1590年、小田原征伐、北条氏滅亡。
1591年、1月豊臣秀長死去、2月千利休切腹、8月鶴松死去。
1591年、12月豊臣秀次関白になる。聚楽第も譲る。秀吉は太閤に(公家としての権限はない)。
1592年、文禄の役。
1593年、8月秀頼が生まれる。文禄の役休戦。
1594年、4月秀吉に病魔が襲い一時意識不明。
1595年、7/3秀次に謀反の疑いをかける。7/8秀次を高野山に追放。7/15秀次切腹。
その後、一族も全員処刑。聚楽第も破壊。
1596年、明と交渉決裂。
1597年、3月慶長の役。
1597年、京都新城築城-5か月で完成。
1598年、5月大坂城の強化を進める。
1598年、8月秀吉死去。
秀吉死去後、秀頼は伏見城から大坂城に移る。
徳川家康が伏見城に入る。
前田利家が大坂城に入る。
1599年、1月伊達家と徳川家が姻戚関係を結ぶ。
1599年、4月前田利家死去。
1600年、6月上杉征伐。
1600年、7月内府違いの条々。
【考察】
まず持論から。
秀吉は朝廷の権威を得て全国の武将を動かした。
そして、秀吉は武の人。
秀吉自身の求心力を高めるには、戦争に勝つこと。
それで始まった朝鮮出兵。
朝廷との繋がりを保つため、秀次を関白にした。
自らは太閤として、朝鮮出兵の指揮をする。
ここから持論中の持論を述べるが、秀次は朝鮮出兵をよく思って無かった。
大名に止めてくれと懇願されたか、京都で評判が悪かったか、秀吉に朝鮮出兵辞めるように言ったのでは?
それで秀吉がブチ切れたと。
千利休切腹事件も同じような理由かと・・・
死期が迫ってる秀吉は、秀頼を守りたい。
秀頼が関白になるまでに時間がかかる。
それで朝廷に出入りして秀頼に帝王学を施そうとするが、関白空位が大問題で公家たちからひんしゅくを買う。
それで秀頼は将軍になることに方向転換したのでは??
武家の棟梁ならばと徳川家康が暗躍することになったのでは??
朝廷の権威がない秀頼ですから。
五大老・五奉行も、家康を関東に帰らせず、若い伊達政宗を警戒して上杉景勝を会津に置いたのでは?
秀次事件で、最上、伊達から恨みを買い上杉を会津に、朝鮮出兵で九州勢の謀反が怖いから毛利も五大老の一人。
豊臣政権は朝鮮出兵で破綻していたと思われる。
農民出身の秀吉は武勇でしか求心力が無く、泰平の世では何もできないことを恐れてたと・・・