英雄たちの選択「継体天皇」を見ました。
武烈天皇崩御で後継者がいない問題。
遠い親戚であり、近江・越前を治める皇族:継体天皇が507年に即位。
しかし、始めは奈良に入らず、大阪と京都の中継地点:枚方の樟葉宮(くずはのみや)で政治を行った。
20年の間、筒城宮(つつきのみや)、弟国宮(おとくにのみや)など勢力を拡大して、526年奈良に入った。
527~528年、磐井の乱があり、これに勝利しヤマト政権は全国から求心力を得た。
ここから考察。
なぜ大王になれた?
越前・近江は奈良の北部で、奈良に入りやすい地域。
防衛上の問題で、ここを敵に回したくない。
さらに、継体天皇の后は尾張出身で、ここも軍事が強い。
朝鮮半島ともつながりを持っているのも魅力。
なぜ20年枚方や高槻にいた??
手掛かりは、鉄の加工の一大拠点を築いた。
つまり淀川~琵琶湖~若狭湾の水上交通を一手に握って、交易の王となった。
造船技術も飛躍的に上がったと思う。
そして鉄をバンバン買い、武器や鍬などを作り、軍事力や食糧生産力を大幅に上げたと思われる。
20年の間に財力・武力とも強大になり、古くからの奈良・大阪の豪族、葛城氏・物部氏・大伴氏など、枚方・高槻に通わないと仕事が無く弱体化するため、遠路はるばる都へ通うことで、忠誠心を高めたと思われる。
そして、大豪族が完全に味方になってから奈良へ入ったと思われる。
その後、九州北部に一大勢力の磐井を討ちに向かう。
磐井は石を加工する技術があり、九州北部だけに、朝鮮半島の伽耶、新羅とも交易が活発で、財力・武力ともに強大であったと思われる。
それを討つために、巨大輸送船を造り、6万の大軍を動員し、ついに磐井を討った。
おそらく、九州南部、吉備、出雲もヤマト政権に味方したと思われる。
これで、屯倉(みやけ)を西国地域に置き、支配力を強めたと思われる。
内政と外交、どちらにも効力を発揮した樟葉宮での政治は画期的だったと思われる!