646年、孝徳天皇による小郡宮の造営。(現在の大坂城の北)大坂に遷都。
646年、大化薄葬令。(身分によって葬式のしきたりを示す。古墳時代の慣習を否定)
647年、礼法制定。(儒教的な礼式)
649年、難波長柄豊碕宮造営。(現在の大坂城南)
→飛鳥の都をしのぐ巨大な都。飛鳥は狭いから巨大化は無理。朝庭、朝堂があった。史上初の王宮に仏教施設が備えられた。
649年、左大臣の阿部内麻呂が死去。右大臣の蘇我石川麻呂も謀反の疑いで追討、自害。
→両者647年の冠位十三階冠位制から外れてた。孝徳天皇や中大兄皇子と意見が合わなかったかもと。
651年、唐の高宗が新羅と高句麗・百済の和議を呼びかける。
653年、中大兄皇子が飛鳥への遷都を進言も孝徳天皇に却下される。
→中大兄皇子が前皇極や皇后や王族、貴族、官人みなと飛鳥に移る。
654年、一人難波にいた孝徳天皇が死去。
655年、前皇極天皇が即位。斉明天皇。中大兄皇子が皇太子。
→皇太子の中大兄皇子が実権。
655年、高句麗・百済が新羅に攻め込む。
658年、659年、唐が高句麗攻め。
653年、654年、659年に遣唐使を送る。
655年、斉明天皇の板蓋宮全焼→飛鳥川原宮→後岡本宮。
後岡本宮は朝庭、朝堂もあり、外郭など防御施設とおぼしきものも。
658年、孝徳天皇の一人の皇子、有馬皇子を殺害。
660年、唐が遣唐使を長安に幽閉。
660年、唐が百済に10万の水軍を直接送り攻撃。百済滅亡。
660年、百済が倭に逃げ込み助けを請う。
661年、斉明天皇は北九州に軍を送る事を決意。
661年4月、倭にいる百済の豊璋に帰国要請。
661年5月、斉明天皇、朝倉橘広庭宮(福岡)に移る。
661年7月、斉明天皇死去。
中大兄皇子が皇太子のまま指揮。
661年8月、豊璋に5000の兵を持たせ帰国させる。
中大兄皇子が第一次進攻軍を出発。
662年5月、倭が豊璋擁立。
662年7月、唐が百済軍を破る。新羅からの兵糧輸送ルートを確保。
唐はさらに7000の水軍を増援。
663年3月、中大兄皇子が第二次進攻軍を送る。27000人。南から新羅を襲う。
663年6月、豊璋が重臣:鬼室福信を殺害する。(内紛)
663年8月、唐・新羅が豊璋の周留城を包囲。白村江に170艘の水軍を配置。
倭の水軍と交戦。2日間で唐・新羅が大勝利。
倭は第一次、第二次で50000の動員が可能だった。
戦死者、捕虜も多かった。
668年、高句麗滅亡。
(考察)
中大兄皇子による権力集中化が行われた。
皇族内にも敵を排除していった。
そして、官・民や軍を自由に動かせるようにした。
その背景は、孝徳天皇は親唐だったと思うが、中大兄皇子は厩戸皇子の意志を継ぎ、百済を優先したのではないかと。
百済は高句麗と仲がいい。
だが高句麗は唐と交戦してる。
味方の敵は敵の理論になる。
だが百済滅亡で、唐が脅威になる。
唐が脅威だが、百済に助けを請われ捨て置けない。義理だと思う。
仏教を政治に取り入れてるが、百済から仏教を教えてもらい、厩戸皇子のような徳を持った政治家が出て来て、今、百済を救済したいと考えたのでは?
孝徳天皇も徳治政治を目指し、海防上あまりよくない難波に都を遷し、唐と仲良くしようと思った。
だが、厩戸皇子をそれほど崇拝していない。
だから百済に対して非情かもしれない。
百済を救済しない孝徳天皇は逆に人心を失ったかも。
百済救済で挙国一致した。
が、唐が強すぎる!ってなった白村江の戦い。
そりゃ10万の兵を渡海できる水軍を持ってるのだから。
その水軍を倭に向けられたらの話になって近江遷都になると思う。
ひょっとしたら、挙国一致どころか、大化の改新政策が急進的で、白村江の戦いもやる気のない豪族も多かったかも。
ただ海を渡ったらひどい目に遭うと・・・
天智天皇-壬申の乱-天武・持統あたりで、唐の恐怖に対して、国がどう変わるか??