川中島合戦はなぜ起きた?
上杉謙信は関東に出兵して北条征伐をしたい。
が、北条の同盟国の武田信玄が北信濃まで侵攻してきた。
上杉にとってなにがまずいって、武田方の北信濃の海津城が、上杉の居城である上越の春日山城がかなり近かった。
武田信玄にとって直江津の港は待望であったはず。
これでは上杉は関東管領になったものの、北条に関東支配を許す形。
だが、関東に出兵すれば帰る場所が無くなってるかも。
上杉としては、海津城を手に入れたい。
これがこの合戦の目的のような気がする。
とすると、第4回で海津城より南の妻女山に布陣した上杉軍。
海津城を落とせれば目的は達するが、もし長引けば、すでに甲斐から出発している武田軍本隊と挟み撃ちにされる。
武田軍が海津城に入城。
ここから超空想。
上杉軍は今回も城を落とすことは叶わなかったけど、海津城はいつもより飯炊きの煙が立っている。
正面衝突する前に、山を下りて越後に帰ろう。
で、妻女山にかがり火を焚いたまま夜のうちに下山。
霧も深くこっそり帰れる。
と思ったら、、、
八幡原に武田軍が待ち構えてる!
「逃げ道を塞がれた!」
と必死で正面に突破口を開こうとした。
信玄も別動隊から合図も無く上杉軍が現れ、虚を突かれた。
「海津城に戻るには川越えがある!ここで敵に背中を向けられん」
それでどちらも入り乱れて、双方退路を作ろうとし、また背中を見せないようする難しい戦い。
どこかで謙信本隊と信玄本隊が衝突してもおかしくない。
どちらも敵中突破が退路だから。
そしてとんでもない死傷者が出て、終結した。
第5次?まともに衝突したら危険危険!
と、双方にとって消耗の大きい川中島合戦だったが、海津城が落ちなかったので、善光寺周辺の山城もゲットしたので、信玄の勝利?とする!
1560年今川義元が討ち取られ、結局駿河を手にしたのは同盟国であった武田軍だったため、このとき甲駿相三国同盟は消滅してる。
それが、嫡男武田義信を失い、陣代になった武田勝頼が内部の統制、上杉、北条、徳川、織田に囲まれて領国維持に苦心し、結局内部崩壊で滅亡した。
武田家にとって海は、アタック25で言う角(かど)かもしれない。
正解数が多くても、角が取れずに蹂躙されてしまう。
でも後ろに織田・徳川がいて、御館の乱で北条か上杉どっちの味方につくかって究極の選択。
どっちについても、挟撃は必至ってね・・・
武田家はどこで間違えたのか?宿命なのか?
第5次川中島合戦(1564年)が第4次の3年後にあったと言うことは、ここら辺の山城・国衆の奪い合いは、双方死活問題だったんだなと。
1560年今川義元が討ち取られて無ければ、一気に春日山城を目指したかもしれない。
そう思った。