英雄たちの選択の松平春嶽の苦悩を見ました。
幕末は天災などで全国的に飢饉が相次いだ。
そこに1853年黒船が浦賀に。
自分なりにこの状況を整理すると、、、
これまでの海防は西欧列強に対してだったから、九州・日本海を固めておけばよかった。
しかし、江戸湾の入り口に米国の黒船が迫った。
国防上非常にまずい事態だったと思う。
太平洋側の海防に力を入れたい幕府。
江戸城本丸が一気に丸裸にされた気分だっただろう。
そこで幕府は江戸を守るために軍を派遣するための参勤交代が活きると思ったはず。
しかし、各藩、参勤交代の資金だけでなく、飢饉のため財政がひっ迫してる。
そんな軍を送れる余裕はないのが各藩。
それを読み切ってる福井藩の松平春嶽は一旦参勤交代を緩和して各藩富国強兵したらどうかと案ずる。
しかし、富国強兵した各藩が江戸城の守りにくるか信用が置けなかったのが幕府かな?
藩主が江戸に来なければ、将軍様との主従関係が疎遠になるのでは?と。
結局松平春嶽の富国強兵して江戸に参上する案は却下された。
そして井伊直弼が大老になって、紀州の徳川家茂を将軍にし、米国とも欧州4か国とも日米修好通商条約を結んだ。
この処置は、外様、譜代、親藩、将軍の序列は絶対であり、外国の脅威を先延ばしにし、富国強兵していく決意だと思う。
しかし、無勅許であり井伊直弼は外国に屈したとみなす尊王攘夷派なる者たちが、大きな声を挙げ始めた。
権門体制論の考え方であり、ここで天皇様が上に来て、幕府はそれを無視したと言う声。
当然井伊直弼は、朝廷より幕府の方が優位であるという考え方であったため、粛清の安政の大獄をおっぱじめる。
これが大悪手だと思う。
力による支配、武断政治の復活とみなされ、幕府の求心力は落ちたように思う。
そして、井伊大老は暗殺された。
混乱の中、薩摩藩の島津久光が上洛し、その足で江戸に行き、1862年の文久の改革が雄藩によって行われた。
将軍後見職に一橋慶喜。
政事総裁職に松平春嶽が就いた。
ここで参勤交代が一気に緩和され、各藩富国強兵に努めた。
しかし、さっそく島津久光が生麦事件を起こし、徳川家茂が上洛して朝廷に屈する形となった。
朝廷の権威が復活したところで、公武合体派と幕府を廃する尊王攘夷派が衝突していった。
尊王攘夷の長州藩による八・一八の政変や禁門の変が相次ぐ。
もはや松平春嶽の構想は意を外れた。
ここで、文久の改革で参勤交代に替わる将軍の求心力を上げる政策は無かったのかなあ??
雄藩連合だったので、外様大名も老中にするとか、300藩の藩主か宿老・家老を江戸に登城させるとか、代替策があった方が・・・
外様の政治参画も一大事件になりそうですけど・・・
薩摩藩の島津氏はなぜ一回も国替えがなかったのだろう??
それも知りたくなってきた。
良くしようと政策を練っても、必ず悪用する者がいると言う皮肉が今日の教訓ですか。。