NHKBSプレミアムの英雄たちの選択「藤堂高虎」を見ました。
主君を7人も代えた「裏切り者」と江戸時代中期の評価だが果たしてどうだろうか?と言う問い。
浅井家に取り立てられ武力を見込まれたが、プライドが高く、周囲ともめ事を起こす厄介者。
それで武力はあるので仕える主君はいるのだが、人を斬って出奔を繰り返す。
そして羽柴秀長に見込まれて仕えることになったが、これが運命的な出会いだったと思う。
秀長は温厚で誠実な人。
他の大名の和睦や調停の仲介役になったりして、信頼に篤い。
そんな秀長に軍事の面でなく、築城を任された。
築城は、人の動員や材料の手配、ち密な計算で石垣を積むなど、土木技術の最先端に触れることになる。
また、ヒト・カネ・モノをうまく回す必要もある。
多分、この大役を任され、秀長の期待と信頼がやりがいになり、様々な技術を吸収して成し遂げたことによる達成感と他者貢献が得られたと思う。
扶持も300石から4600石に加増。
ついには、大坂の玄関口和歌山城の設計・築城も任され成功させる。
そして秀長の家老になる。
だが秀長の兄、天下人豊臣秀吉が中央集権国家を目指し、太閤検地と刀狩りを行う。
石高を決め、年貢の取り方を統一し、軍事の兵糧を安定的にするものだった。
これは農民にとって過酷を極め、不作の時でも容赦なく決まった年貢を取り立てるなどして、一揆が多発。
高虎も500人の農民を殺害することに。
1591年主君秀長が病死。
秀吉によって、宇和島のあたり7万石の大名に。
しかし、そこは前大名:戸田勝隆による過酷な太閤検地を実施し、一揆が起こり、2000人が犠牲になった土地。
田畑は荒廃した所への国替えだった。
高虎は太閤検地を実施せず、開墾したら一年年貢を取らないなど、領民のためのお触れをだした。
また、地域の信仰の厚い神社を次々復興させた。
中央の言いなりでなく、領民のための領国支配だった。
1598年豊臣秀吉が死去。
石田三成による太閤検地など現政策実行派と、徳川家康による反発派に分かれ始める。
そして事件が起こった。
石田三成による家康暗殺未遂事件。
高虎は未然に察知し家康を救う。
多分この三成の中央集権のために煙たい者は容赦なく暗殺すると言うやり方が、人心を失い、関ヶ原で裏切り者が続出した気もする。
高虎は豊臣恩顧ではあるが、秀吉の強引な中央集権体制になびかず、家康の関東を栄えさせる手腕、つまり領民の力を結集して街づくりをする方法論に感化されたと思う。
豊臣から徳川へ主君替えしたが、ビジョンは徳川と同じだったとも言える。
その徳川政権の下、今治城で城下町を含めた築城というより街づくりを成功させ、これをプロトタイプとして、全国の30城近くの築城を請け負った。
治める土地は、将軍様から預けられ任されているので、しっかり領国経営する決意も記している。
幕藩体制の鑑となっている。
秀長に武力でなく、人としての総合的な能力を伸ばしてもらい、家康と言う同じ絵を描ける主君に出会えて、その能力を存分に発揮できた武将だなあと思った。
だから、豊臣秀長と言う心の師匠からは、豊臣秀吉のように人たらしでなく、人を大事にすることを教わったんだなあと、うらやましい出会いに乾杯したい気分です^^
清々しい!