歴史の転換点かも1864年!(歴史編) | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

1864年2月、横浜鎖港談判使節団が正使:池田長発でフランスへ出発。

攘夷を決行するためだが不可能と見られていた。

 

2月に西郷隆盛が流罪先から帰藩し、京へ向かった。

 

参預会議は、島津久光、松平春嶽、伊達宗城が開国論を主張するも、松平容保はともかく、一橋慶喜が攘夷論を唱えた。

3将と一橋慶喜がまったく相容れなくて参預会議は空中分解した。

島津、春嶽、伊達、山内容堂は帰藩。

慶喜は将軍後見職を辞し、代わりに禁裏御守衛総督と言う京都守護職とかぶるような任についた。

これで文久の改革を要求した島津久光と一橋慶喜の関係は悪化。

幕府が孝明天皇に同調して勢力回復を狙ったと考えられる。

 

3月に元号が文久から元治へ。

 

5月、水戸藩で天狗党の乱が起こる。

戊午の勅書を返納せよと言われてるが、返さないと主張している過激尊攘派が、横浜鎖港をしないことを不満に思い挙兵。

結構な勢いが出たが12月、慶喜によって解散させられる。

 

神戸海軍操練所が設立。

 

7月、要人暗殺、天皇連れ去りを企む過激尊攘志士を新選組が一斉検挙した池田屋事件が起こる。

 

8月、池田屋で長州藩士を殺されたことに怒り、長州藩の過激派は一気に京都守護職:松平容保排除に武力蜂起する。

真木和泉や久坂玄瑞を中心に大砲も使用し、京都に侵入。

ここで一橋慶喜、会津藩、桑名藩の一会桑に薩摩藩の援軍が加わり掃討に成功したため、一会桑政権として、京都での発言力を増した。(禁門の変)

 

さらにイギリスのキューパー中将率いる四か国連合艦隊が長州の下関を襲撃。

たまらず高杉晋作を講和に向かわせた。

この時の講和条件は、下関海峡の航行の自由、補給に応じる、賠償金の支払い(幕府が)だった。

 

9月、賊軍である第一次長州征伐を行う。

長州に反撃能力が無いので、西郷隆盛と長州の吉川経幹が会見。

三家老の切腹、四参謀の斬首、五公卿の追放で講和した。

このとき、高杉晋作などの維新のエース級は九州に逃亡していた。

 

12月、逃亡していた長州志士が功山寺で集合し、萩城に攻め入り革命に成功する。(元治の乱)

高杉晋作は、攘夷のために開国して国力を上げる必要性を感じていた。

 

 

(感想)

ちょっと複雑な権力闘争でこんがらがってきました。

時系列も複雑・・・

一会桑が今のところ政治の実権を握ったが、薩摩も長州もそれぞれ開国と言うところで一致します。

ただ八月十八日の政変で一度衝突してますね・・・

もうすぐあのお方がってところですか^^

 

※禁門の変のところを加筆しました。