今はジャージの上にフリースのパーカーを着ています

寒いな〜
でもファンヒーター出すには早すぎるょね

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本当は父の故郷の福島へ行こうと思っていたのですが、被災地へ行くのには時間的に難しいことが分かって、
仙台を訪れることにしました。
仙台駅前でレンタカーを借りて
最初に、せんだい3.11メモリアル交流館
へ。
新しく出来たばかりの
地下鉄東西線 荒井駅内に併設された
こじんまりとした施設です。
中に入ると、仙台の大きな地形図(パネル)があり、その反対側の壁には震災の様子が映像で映し出されていました。
スタッフの女性が声をかけてくださり
沿岸部にあった小学校のうち
建物が現存しているのは若林区荒浜地区の荒浜小学校のみであることや
海沿いを走る「県道塩釜亘理線」から東側(海側)の地域は災害危険区域に指定され
居住してはいけないことになってしまったということ
荒浜地区などの、沢山の人たちが生活していた集落が無くなってしまったこと
その県道から少し内陸側を走っている「仙台東部道路」という高速道路が津波を堰き止め、
その道路を境に命運が分かれたことなどを聴きました。
2階に上がると、震災から復興までの状況がパネル展示されていていました。
津波により被災した東六郷小学校で
(現在は移転)
子供たちが使っていた机や丸椅子なども置いてありました。
小さな小さな施設ですが、
震災の記憶を静かに語りかけて来るような
そんな場所でした。
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2011年、平成23年3月11日
午後2時46分
この日は、ボランティアの総会がありました。
総会が終わって
名古屋市内のビルの1階にある喫茶店で、スタッフの役員さんたちとお茶をしていたとき
大きくて長い地震がありました。
私の席の真後ろには大きなガラス窓があっだのですが、ギシギシという音がしていて怖かったのを覚えています。
阪神大震災の時の揺れを思い出して
スタッフの皆で大丈夫かな、、と心配しながら話していたところ
お店の方がテレビをつけてくださったのですが
そこには、津波が大きな川を上っていく映像が映っていました。
スタッフの1人に仙台出身の人がいて
実家に電話をしても繋がらないと不安そうにしていたのを思い出します。
私も、甥が宮城県にいたのですが
無事なことを確認できたのは翌日でした。
あの日のことは
忘れることはないでしょう、
忘れてはいけないな、
とここへ来てあらためて思いました。