オンラインセッション
Online Cafe Hinata
マスターのひーちゃん(伊藤久子)です。
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生きるのがしんどいときの
世界観は
行動のすべてが、
- やらないといけないこと
- やってはいけないこと
- やって”も”いいこと
のいずれかでしかなく、
これらを完璧に
こなせなければ
「存在してはいけない人」
である。
やってはいけないこと
・人を傷つける
・人を怒らせる
・人を不機嫌にさせる
・人に嫌われる
を、もしやらかした場合は、
本来死ぬべき(存在してはいけないから
であるから
生きているのであれば、
その罪を償うよう最大限の努力が必要である。
やらなきゃいけないこと
・普通の人として普通に生活する
(「変」であってはならない
・社会の役に立つ
・適齢期に結婚する
・適齢期に適切な人数の子供を産む
(つまりは「変」ではいけないから
を、もしできないとなれば、
やはり本来死ぬべきで(重いなー笑
生きつづけるのであればやっぱり
罪を償うよう、
上記ができるようになるよう
人間の中には
「存在していい人」と
「存在してはいけない人」の
2種類がいて、
私自身は
いつまでたっても
「存在してはいけない人」
でしかなかった。
だから、しにたかったし、消えたかったし、
生きていることがなんて難しいのかと思った。
その
- やらないといけないこと
- やってはいけないこと
- やってもいいこと
の基準は結局母親由来で。
つまり私は
母親が「いい」と言ってくれれば
「存在していい人」で
母親にダメ出しされたり
否定されたりするなら
「存在してはいけない人」だった。
母の意見によって、
私は存在していいか
存在してはいけないか
が決まっていた。
(重い………笑
しかしながら
母に完全に同意されることも
母に否定されなくなることもないので
「存在してはいけない人」から抜けられない。
私はそれでずっと傷ついてきたから、
謝ってほしかった。
存在を否定してきたのであるから、
土下座して、泣いて、謝るべきだ。
これは一生をかけてでも謝るべきことだ。
謝ってもらえたら。
屈服させられれば。
私の方が正しいと証明できれば。
「私は」存在して良くなる。
ただ。
これは、
謝られたとしても
謝られなかったとしても
「母に存在許可をもらわねば
生きていてはいけない」
ことに変わりがない。
同じ。
謝ってもらっても
謝ってもらわなくても。
世界観の苦しさが同じ。
ほんとうは。
世界にあるのは
- やりたいこと
- やりたくないこと
- 上記を叶えるために必要なこと
でしかなくて。
「存在してはいけない人」
なんていなくて。
私も
母も
当然に
存在してよかった。
私は
存在を否定されてきた
わけじゃなくて
ただ、悲しかった。
ただ、傷ついた。
ただ、ムカついた。
ただ、うんざりした。
ただそれだけのことで
母も、
ただ、イラついた
ただ、言いたかった
ただ、私に間違わないでほしかった
ただ、私が誰にも傷つけられたり馬鹿にされたり蔑ろにされたりしないようにしたかった
ただ、それだけのことだった。
悲しむことも
傷つくことも
不安からくる利己的な愛情を注ぐことも
どれもあっていいことだった。
私は存在を否定されてきたわけじゃなかった
私は「存在してはいけない人」ではなかった
いつだって、いてよくて、
「存在してはいけない人」だったことは
一秒もなかった。
母が謝ろうとキレようと
私の行動にケチつけようと賞賛しようと
私が生きてていいかどうかに関係がない
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