ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -36ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 前回記事でイスラムがらみのテロ事件の話題を書いたばかりなので、例の日本人殺害事件のことを取り上げるのはよしときます。おおよそ他のニュースやワイドショー、ブログなどで多くの人が書いてた意見と僕のそれに差異はほとんどないし、274番煎じくらいになっちゃいそうだから。国会ヤジの話とか中1男子殺害の話とかも、過去に何度もこの『グミシン』コーナーで書いた内容を繰り返すことになりそうだし──そんなわけで今回は、この記事書いてる今日当日の朝刊の、政治面でも社会面でもスポーツ面でもなく『くらし』欄で取り上げられてた生活の話題から──
 今、スーパーの店頭にて、バターの品薄状態が続いてるらしい──らしい、ではなく実際スーパーとかに行くとバターの棚がスカスカのガラ空きな状態を僕自身よく目にする。そんな状態がもう半年以上くらい続いている。棚のところには「バターの販売はおひとり様1個限りとさせていただきます」と書かれたポップが貼られてたりもする──ここまでバターが品薄になった原因についてその記事は、高齢化による酪農家の減少で原料の生乳の生産量が落ちたためとしている。しかしそういうことであれば牛乳やチーズ、生クリームなんかも同様に品薄になってなければならないのだが、他の乳製品についてはそういう報道がされたのを見た記憶はない。もちろんその記事にもバター以外の乳製品のことについては全く触れていない。
 当然、バターがこうも品薄になった原因は別にあると考えるのが普通であろう。てか、何でバター不足をテーマに書くのにこのことに全く触れないのかって感じなのだが──トーストに塗るものとしてバターと並んでおなじみのものがあるでしょ。そう、マーガリンである。
 食品安全委員会が公表した「食品に含まれるトランス脂肪酸に係る食品健康影響評価情報に関する調査」の報告書においてマーガリンが名指しされたのは4年くらい前のことだろうか。マーガリンに豊富に含まれるトランス脂肪酸が心臓疾患への影響が強いという。その有害さゆえに食品への使用を規制している国も多数あるという。この動きは特に米国で顕著で、マーガリンを危険視する風潮が進み、結果として下火になってたバターがの需要がぐんぐん高まったのだという。アメリカのトレンドが少し遅れて日本にも訪れるのは何につけてもそうであり、マーガリンの件も例外ではない。日本でもそれまでトーストにマーガリンを使ってた多くの家庭がマーガリンを忌避してバターに切り替えようとして、結果としてバターの需要が急増して供給が追い付かなくなってる、というのが実際のところである。
 その、マーガリンの問題とそれに起因する需要の急増について件の記事が一切触れていないのはなぜだろう? 記事が載ったのは『くらし』欄である。マーガリンが有害というデータに起因する話ということは、庶民の食生活と健康に関わる話なのである。バターのこの品薄状態とマーガリンの不人気を受けてメーカー各社からは“バター風マーガリン”なるものが次々と発売されている──問題の経緯を考えればそれ全然意味ないだろって思うのだがw──もちろんそれについても全く触れられておらず、記事中のどこにもマーガリンのマの字も書かれていないのは何故? バターとマーガリンはメーカー企業がほぼかぶってるし、広告スポンサーへの配慮うんぬんの理由は考えにくいのだが?
 『くらし』欄の記事といえども、政治面や社会面よりもニュース価値が低いなんてことは決してない。特にこのニュースは国民の食生活と健康に大いに関わりある話である。もちろん酪農業など産業との関わりに着目することも大事ではあるが、ニュースにまつわるデータは公平に取り上げて多角的な判断材料を提供してもらいたいものである──

 









 まず辞書的な語意を書いておくと、雄々しい=「勇気を持っている、または示すさま」「戦いまたはアクションにおいてひるまない 」という意味で用いられ、中には「男性の特性」と解説する辞書もある。まあ褒め言葉と言ってよいだろう──これに対して、女々しい=「態度や気性が柔弱である」「いくじがない」という意味の、ハッキリ言えば貶し言葉だ。字面と語意からすると、男らしいことがすばらしくて女らしいことが情けないという印象なのだが…。
 もっともこれらの言葉はいずれも主に男性に対して用いられる言葉であり、女性に対して「あなたは雄々しい(女々しい)人だ」と言ったりすることはまずない。男に対しての言葉であるから、雄々しい=男としてふさわしい性格、女々しい=男なのに男らしさがなくて女みたいだ、ということであり別に他意はない、そういう意見を言う人もいるかもしれない。しかし男が女みたいなことって(もちろん女が男みたいなことも)いけないことなのだろうか? 好みの問題は置いといて、セクシャルマイノリティ問題やジェンダーフリー化への声が高まってる昨今、この表現は旧弊ではなかろうか? そもそもどちらの言葉も男性に対して用いられるものだ、という時点でもう男中心社会の象徴としてヤリ玉に上げられかねない。どちらの表現も、現代的には使うことが憚られる言葉であるような気がしてしまうのだが──
 しかし、今のところこれらの言葉にフェミ系の人たちからクレームがついたとかメディアが使用を自粛したとかいう話は聞かない。てか、カラオケ屋に行けば若者たちは普通に ♪女々しくて、女々しくて、女々しくて… なんて歌いながら男も女も盛り上がってるし、この曲でゴールデンボンバーがブレイクしたのはまだ3年くらい前のことである。彼らは昨年末の紅白でもこの曲で出場している。もちろん歌詞の内容は、上記の通りの意味での女々しい男のことを歌ったものである──この例だけでも、一般大衆的に何の問題もない言葉なのは明らかだろう。
 あと、なぜ『男々しい』ではなく『雄々しい』なのか、それに対して『雌々しい』ではなく『女々しい』なのか? 上記の意味での雄々しさ=男性的とは動物的なもので女々しさ=女性的とは人間的なものという意味なのだろうか──確かに人間以外の動物の雄はライオンにせよ軍鶏にせよカブトムシにせよ堂々として闘志あふれて雄々しいけど、動物の雌が女々しいかというと、ライオンにせよカマキリにせよ勇敢でたくましい。野生で生きるのだから当然と言えば当然である。男女問わず女々しいのは人間だけである──
 そう考えれば、雄々しいよりも女々しい方が人間らしいということになるのだが──しかしこの現代においても「女々しい男なんて無理、雄々しい人が好き」な女性陣が大半である。フェミニズムにもジェンダーフリーにも反して、動物的な男の方がいい、ってのが多くの女性の本音っていう、そしてこれら表現が男性に対してばかり用いられてるというこの現実…。フェミ系のみなさん、何かご意見は?

 









 僕が仕事で移動中の車の中でいつも聴いてるローカルFM局で、今月になってそのアーティストの曲はかなりのヘビロテでかかっている。以前の記事でも何度か書いてるようにFMラジオではありがちなことではあるのだが、彼はその局で番組パーソナリティを担当してることもあり、局を上げてプッシュしてる感が強い。彼の担当番組は公開生放送で、実は僕も何度か観覧したことあるのだが、本人はなかなか素朴な好青年で音楽の知識も豊富だし、パーソナリティとしてのトークも、流暢ではないけれど話題の説得力はなかなかあって引きつけられる面も多い。で、彼は父親と弟が俳優という芸能一家に育ち、母親は結婚引退して久しいが、その引き際も含めて伝説となってるスター歌手である──そんな彼の、現在ヘビロテの新曲、楽曲の完成度も本人の歌唱力もかなり高い佳曲だと僕は感じるのだが…、オリコンのCDチャートの初動は47位と、一般的にはまるでパッとしない感じである。
 そのアーティストとは、三浦祐太朗。そう、三浦友和・百恵夫妻の長男である。最新曲の『星屑メリーゴーランド』は切なく聴かせてくれるバラード曲で、女性ウケしそうなナンバーである。現在、本人もこの新曲のキャンペーンに力を入れてるみたいで、上述の公開番組では観覧者の中に彼のファンと思われる女性の姿も少なからず見られるのだが…、その年齢層がかなり高めであり、どっちかというと彼の父親(若い頃はとにかく二枚目だったからな)のファンからの流れで、ある意味親戚のオバサン目線で彼を見てる感が否めない──もっとも僕自身、母親似である彼の顔立ちにその面影を見てる面は否めないが。
 彼自身もともとのデビューはバンドとしてであり、決して両親と全く同じ路線での活動ではないし、ソロに転じてからも松山千春の足跡を描いた舞台で若き日の千春を演じて『旅立ち』などの名曲をカバーしたりなど、アーティストとしての評価もそこそこされてるはずなのだが──それでもどうしても偉大な両親のイメージと比べると一般的には地味なのは間違いないし、その意味ではむしろイメージ的には損してるのではなかろうか。それに加えてFMでのヘビロテとパーソナリティとしてのローカル人気ぶりが一般人気との落差としてまた負のイメージのような気がする。
 このFM人気と親の七光りについては以前にもこちらこちらで書いたが、彼はその両方を背負っちゃってるわけで、純粋にJ-POPアーティストとしての評価というものを少なくとも一般的にはあまり聞かない。僕がふだんFM聴く習慣のない人間であれば「三浦祐太朗? ああ、百恵ちゃんの子供ね。歌でデビューしたって聞いたけど、まだやってるの?」みたいに今頃思ってたかも──実力はそれなりにあると思うしまだこれからの人だと思うので、付帯条件抜きでもっと純粋に聴かれていいアーティストだと思うんだけどね…。

 









 もう何年も前から言われてるように、現在日本国内で慢性的に医者が不足している。地方に行くほど状況は深刻であるが、都会で逢っても人口に対する医師の数は足りてるとは言えない状況が続いている──その中でも特に不足しているのが産婦人科と小児科なのだという。
 医師の仕事は一般的に激務である。確かに収入は多いが、労働時間の長さやミスしたときのリスク、それに伴う精神的ストレスを考えると大変な仕事であることは間違いない。何科の医師でもそれは多かれ少なかれ同じではあるが、産婦人科に強いられるそれら負担は他の科の比ではない。妊婦さんは24時間365日いつでも産気づくし、早期破水起こすこともあれば切迫流産の危機に瀕することもある。当然産科医はその都度対応をせまられることになる。そしてそれらが失敗した時…、死産したり処置を誤って後遺障害を負ったりした時の、患者の喪失感や絶望感の大きさは他の病気の比では到底ないわけで、あらゆる科の中でも最も割の合わない科ではなかろうか。当然、医師になって何科を志そうかという段になって産科を希望する物はなかなか現れない。街中から産婦人科は減る一方で、そんな状況では安心して子供も産めない──昨今の少子化の主原因ではもちろんなかろうが、それを助長する要因のひとつになってることは間違いなかろう…。
 で、子供が減るということは当然、小児科にかかる患者も減るということである。僕自身、子供の頃しょっちゅう風邪をこじらせては小児科の先生に世話を焼かせてたものであるが、当時のかかりつけの先生以外にも、街には小児科が何軒もあったように記憶している。総合病院や内科兼務ではなく、小児科単科の街医者が。現在街中で小児科の看板を掲げてる医院を全くと言っていいほど見かけなくなった。少子化の件も原因だろうが、昨今問題になってるモンスターペアレントは、学校だけでなく小児科の医師にとっても脅威なのであろう。病気にかかって苦しんでる子供を目の当たりにしてる親にとって、医師の診察いかんによって反応がヒステリックになるのは無理からぬこと。当然医師の精神的ストレスも上述の産婦人科に負けず劣らずである。どうしても、小児科を志望する医学生はなかなか現れない。ただでさえ少子化で患者不足の昨今、リスクばかりでうまみのない科を志望なんてするわけがない──
 そんなふうにリスクの少ない科を医学生が選びたがる状況だと、結果として選ばれた内科や泌尿器科、耳鼻咽喉科などの医師でも、若いやつはどこまで治療に対して真摯に取り組んでくれるのだろうか、などと思えてきたりもしてしまうのだが──しかしリスクに対してのリターンが割に合わないとなると医学生ばかりを責めることもできないわけで…、一般患者の立場である我々といえども、その辺はある程度気配りして過度に医師の責任を問うことは自重するする必要があるのかも知れないね。

 









先場所13日目、横綱白鵬が稀勢の里を破り、ついに大鵬を抜いて幕内最高優勝33回の歴代最多記録を樹立した。北の湖も千代の富士も貴乃花も朝青竜も、大鵬以降大横綱と呼ばれた誰ひとりとして届かなかった記録を、白鵬がついに塗り替えたのだった。これは文句なしの大記録であり、大いに栄誉なことで立派に賞賛されるべきであろう──だが、その偉大な記録を樹立した白鵬が場所後に世間の話題を呼んだのは、それとは別のあまりよくないニュースだった…。
 優勝が決まった稀勢の里との相撲は取り直しの一番であり、最初の相撲は白鵬に軍配が上がったものの物言いがつき、審判委員の判定は「同体とみて取り直し」だった。結局その取り直しの一番を制してその日に優勝が決まったのだが──千秋楽の翌朝、取材に応じた白鵬が取り直し前の一番について「明らかに自分が勝ってた」「子供でもわかる一番だよね」「審判はちゃんと見てるのか」などと審判部批判が飛びだしたことで協会や横審のみならず報道の論調やそれを受けた世論までが白鵬に批判的な方向に傾き、協会から師匠ともども厳重注意を受けて本人の謝罪の意が報じられるも、人づてであり本人直々でないことでさらに世論からは批判的な声がなかなか収まらない、という事態になってしまったわけだ。
 件の一番をVTRで見る限り、同体取り直しという審判の判定はほぼ妥当であろうと思われる。相撲の流れで見れば白鵬優位には違いないが、稀勢の里が土俵を割るのと白鵬の足が裏返って甲が土俵につくのとはどちらが先とはハッキリ言えない微妙なタイミングであり、同体となるのは致し方ないだろう。「子供でもわかる誤審」とは明らかに言い過ぎである。それに加えて協会批判とも取れる内容でもあり、関係者が反発するのは当然であり、品格が問われる横綱としては大人げないのも確かである。同様の誤審(これば明白な誤審であり、勝負判定にVTRが参考にされるきっかけとなった)により連勝記録が途切れた大鵬が「ああいう相撲を取った自分が悪い」とコメントしたのとは対照的で、自ら印象を著しく貶めたのは間違いなかろう──
 が、しかし──である。仮にも相撲史に残る歴史的大記録が樹立されたその場所の直後に、それを樹立した当の本人に関して、大記録樹立を讃えるよりも失言をヤリ玉に上げる方が先に立つどころか、そっちオンリーにさえなってしまうというのはいかがなものでしょうか? 件の発言も、まさにその大記録樹立を決めた一番に関するものである。インタビューは千秋楽の翌朝で本人はもちろん関係各位も興奮さめやらぬ状態。そんな中で勢いで飛び出した発言(それも他にいろんな内容でコメントしてる中のワンオブゼム)を誇大にクローズアップして煽るというのはいくら何でもいただけないのではないでしょうか? それが大鵬を抜いて幕内最高優勝回数記録を44年ぶりに塗り替えたことよりも重要なニュースなのですか?
 数年来の不祥事続きにより悪いニュースばかり続いた相撲界、その前から大分人気が凋落して世間的にも関心が薄れてる状況下にあって相撲界=不祥事的な認識の人も少なからずいると思われる世論に向けて、歴史的栄誉をかき消して問題発言のニュースをクローズアップして何日もその話題で引っ張ったマスコミ各社は、角界潰しの意図でもあるのだろうか──
 あと、協会側も横審側も、内部的に本人と師匠を厳重注意するのはいいとしても、それを報道に大っぴらに流して看板横綱の印象を貶めることに加担するというのはいかがなものだろうか? 大記録樹立は協会にとっても名誉なことのはずである。それをかき消して自分たちにとっても不名誉なことを必要以上に(←ここ重要)前面に出すというのは、それって一体誰得?

 









 まだ広島の実家に住む小学生だったある日のこと。学校から帰った後、自宅の前を流れている川岸の水辺で近所の友達と遊んでいると、パジャマ姿にサンダル履きのオジサンがやってきた。その手に提げられてるのはネズミ取り、その中に一匹のネズミ。物珍しそうにそれを眺める僕たちの前でそのオジサンは提げたネズミ取りをザブンと川に入れ、取っ手の部分を残してネズミ取り全体がすっぽり水没した。中にいたネズミがカゴの中でシタバタと暴れ回り出した──「ネズミさん息できんよ」と言う僕にオジサンは「ほうよ、息できんで死ぬんよ」と普通に答える。ネズミは依然としてジタバタしてるが人間とは違い顔に苦悶の色は浮かべず無表情で暴れ回ってる姿は苦しんでる風には見えず、そのせいかあまり「可哀想」とか「残酷」とかいう気持ちには特にならず、ただ普通に目の前で起きてる光景を眺めていた──数分後、中のネズミがぐったり動かなくなった後、オジサンはネスミ取りを引き上げ、中から動かないネズミを放り出して地面に転がした。「このまんまにしといたら、そのうちトンビがサーっとさらって行くけえのう」上空で輪を書きながら舞っているトンビの群れを見上げて指さしながらそう言い残し、オジサンは空になったネズミ取りを持ってその場を去って行った。僕たちはそのまま遊びに復帰したが、日が暮れて家に帰る前にトンビがそのネズミをさらっていったかどうか記憶にない。少なくともその瞬間を僕たちは見てはいない──
 ──とまあ、子供の頃に見た、ただそれだけのエピソードなんですが…、あなたならこの話のどの部分に着目して、そこからどのように話題を広げますか?
 市内に川がたくさん流れる広島の風景、パジャマ姿で家の外まで歩いて現れるオジサン、ネズミが出る家とそれに仕掛けられたネズミ取り器、ネズミの死刑執行の一部始終、それを淡々と眺める小学生時代の僕、トンビが街中の上空で普通に見られるって…、流れる川の水際まで近づいて遊ぶ小学生の子供、猛禽類であるトンビの生態、転がったネズミは病原菌とか持ってないのか、などなど──切り口はいくつか考えられるし、その内容によってはこの『ノンセク』よりは『ヒヤリハ』や『メディラビ』コーナー寄りの方向に話題を広げることもできるだろうが…、今回は敢えてここから先へは広げずにここで止めます。皆さんなりに、それぞれ個々の生い立ちや体験、知識などと照らし合わせて色んな切り口からの話題の肉付けを試みてみてください。
 と、そんな感じでどんな人でもこれまでの人生の中でこれと同程度の小ネタ的体験や伝聞を積み重ねながら今日まで生きてきたと思うのである。あくまで話のタネであるこうしたエピソードの素材をどこまで膨らませられるか、そもそもそれが広がる素地のある話題なのか、その辺の話題の取捨選択と肉付けのワザ、お互いに磨いていけるようにこれからも努めましょうです…。

 









 実はこの言葉、かなり以前からこの『日本語』コーナーで取り上げたいなと思いながら、昨今あまり一般的には使われておらず、何となく取り上げるチャンスが見えないまま今日まで来てたのだが──つい先日リリースされたAKB48の最新アルバムのタイトルになり、この言葉が一気にクローズアップされてるようなので、後追い的なのが少々アレではあるが、今回取り上げてみます。
 もともとはイソップ寓話の中のお話「遠征帰りのあるアスリートの自慢話で『俺はロドス島で五輪選手も及ばないような大跳躍をした。もそロドス島へ行くことがあればその大跳躍を見た観客がたくさん証人になってくれるよ』と言ったのを聞いたある男が『証人なんか要らないよ。ここがロドスだとしよう、さあ跳んで見てくれ』と言った」という話から来た言葉である。寓話の教訓としては「すぐに実証できることをくどくどと論じる必要はない」つまり「論より証拠」に近い意味か、もしくは「いざという場面で出せない力は真の実力ではない」との解釈が一般的だろう。マルクスは自著『資本論』でイソップ寓話からこの言葉を引用しており、ヘーゲルも『法の哲学』で同様の引用をしている──今回この言葉をAKBメンバーに贈るにあたり、秋元康氏は「『努力は報われるのか?』というテーマに悩み苦しにながら立ち向かってる彼女たちに『努力した』『頑張った』とか言う前にまず、ここで跳んでみよう、つまりロドスのことを忘れて今ここで跳ぶ勇気が必要なんだ。ロドスとはAKBのこと。やがて卒業して行ってから『AKBでどんなに頑張ったとかどんなに努力したとかどんな記録を出したとかはどうでもいい、ここで跳べ!』と言われる日は来るから」という思いを込めたのだそうだ。
 本来のイソップ寓話で「ここで跳べ」と言われたそのアスリートはホラ吹きとして描かれており、正直あまりよい印象ではない。この話で最初にこの言葉を知った僕的にも、表題の言葉は口先男への嘲笑用語という印象をぬぐえない──だがマルクスもヘーゲルもどちらかというと肯定的というか前向きな意味でこの言葉を用いている。前者はサントリー創業者の「やってみなはれ」的な、後者は槇原敬之『遠く遠く』のラスト的な意味合いで。今回、AKBメンバーにこの言葉を贈った秋元康氏も同様の意味合いを込めている。上述のアルバムタイトルと同名の収録曲の歌詞を読むと、前向きでありながらも今ここをしっかり見据えての飛躍を促す内容である。
 この『日本語』コーナーではこれまで何度となく、言葉の“恣意的悪用例”を取り上げて注意を促してきたが、今回のこの言葉はその逆のパターンである。恣意的に本来の意味から転用してることに変わりはないのだが──でもこちらの恣意的解釈は“悪印象な言葉のイメージアップ”で悪い気はしない。こういう転用ならいくらでもOKだと言いたいけれど──まあ、でも本来の意味も(その出典も含めて)この機会に知ってもらいたいものです。AKBヲタの皆さんにもw
 …といいつつ表題の言葉に僕が抱いてる印象はなかなか拭えないだろうけどね。


 









 昨年暮れに喪中欠礼が届いた、母の女学校時代の同級生に、年が明けてから母が寒中見舞いを出したところ、つい数日前に本人から母に電話がかかってきたとのこと──昨年亡くなったのはその方の息子さんで、その頃世間をを賑わしていた某ニュースの渦中にいる中での突然の不可解な死であり、もちろんその死についても新聞や週刊誌ダネになっている。そんなこともあって母も連絡を取りづらかったらしいのだが、その時の電話での話だと、マスコミ記者が話を聞こうとして何人も家まで訪れてきたりしたらしい。件のニュースはその分野のかなり専門的な領域にかかわる話であり、実母とはいえその世界には全くの門外漢であるその方に、マスコミに話せるようなことはもちろん何もない──
 で、母の元同級生ということは、その方はかなりの高齢である。ただでさえ自慢の息子さん(社会的ステータスもその世界での評価もかなり高い人だった)が突然不可解な死を遂げたのだから心労は察するに余りある。そこへマスコミ各社の矢のような訪問である──冗談ではなくマジで寿命に影響するぞ。報道被害って、単に名誉や社会生活上の話だけでなく、状況によっては身体や生命にも及ぼされかねないという認識、マスコミ人たちには果たしてあるだろうか?
 実は僕もつい数年前に、この種の取材者に自宅を訪問されたことが数回ある。いずれも僕の不在中で母が対応したのだが。その時の取材内容は上述の大ニュースと比べれば全然小さい事件(と僕は認識してるのだが、取材者のフリージャーナリスト氏は背後に大きな存在を疑ってるらしく、そのあたりを調べたいようだった)であり、なおかつ僕とは関わりが切れて久しい人たちのことであって、僕に問われても深い事情までは知らないから向こうの満足できるような答えはできない。多少彼らに関わったことのある僕でさえそうなのだから、まして母に訊かれても何もわかるわけがない。母にしてみれば少なからずきな臭い話にまつわる寝耳に水の取材である。立派に暴力的である──そんなことが複数回。いずれも即座に懇意の弁護士に連絡して対処していただき、その後特に何もなく今日まできており、その件は終わったと認識している。
 ──というこの文章を書いてる、まさにその最中、テレビの臨時ニュースでイスラム国に拘束されて身代金を要求された日本人2人のことが報じられた。うち1人はフリージャーナリストで、先に拘束されてたもう1人の行方について取材してたらしい。報道する者は加害者になる危険と同時に被害者になる危険もあるのだ──それらの危険性が、追ってるニュースの大きい小さいとは全く無関係であることは言うまでもない。フリーの人間はともかく、上述のメディア各社の社員たちは、報道にたずさわるにあたり、そこまでの覚悟は背負ってるのだろうか? その辺、しつこく取材攻勢をかけてみたい気がする…。

 









 年明け早々、いきなり大変な事件がパリで起きてしまった──『シャルリー・エブド』という新聞を発行してる会社の本社を武装した覆面姿の複数の人間が襲撃、警官や編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者など、計12人を銃撃により殺害した事件である。フランスを始め世界各国はこの事件を「凶悪なテロ事件」とし、出版界隈でも「表現の自由への挑戦」と位置づけて大規模なデモなども行われているようであるが──
 件の『シャルリー・エブド』誌は左派寄りの風刺新聞として知られており、風刺画を多用て国内外の極右や各種宗教(カルトか否かを問わず)、政治等に関して調査報道を行っている。「様々な左派や、さらには政治に無関心な人の見解」を反映することを編集方針とし、これまでもさまざまな宗教が紙面においてイラストによって揶揄されてきたが、特にイスラム教の預言者であるムハンマドがヤリ玉にあげられることが多く、その風刺内容もちょっと下世話で低俗ではなかろうかと思えるものであった。偶像崇拝を禁じているムスリムにとってはムハンマドのイラストを描くということだけでも預言者への冒涜で感情を逆撫でする行為であるのに、その内容があれだから、ほどほどにしとかないとちょっとヤバいんじゃないの? って感じではあったのだが…。
 長年アマチュア詩人として同人誌に参加したり個人集を作ったりして作品を発表してきて、現在もこのサイトを始めとしてネット上のいろんなところで雑文を書いてはUPしてきたけど…、宗教がからむテーマについて書く時にはかなり気を使うのである。とにかく、宗教の熱心な信者というのは往々にしてシャレが通じない。軽い気持ちの揶揄のつもりが、ヘタすると社会的立場のみならず、生命までもが脅かされることだってあり得るのである。例えば映画『二代目はクリスチャン』にキリスト教団体からかなり抗議があったらしいし、オウム事件の時の話は小林よしのりが自身の体験を漫画に書いた通りである。他にもいろんな宗教がらみでこのような事例が一体いくつあったことか──とにかく法治国家のルールも社会的モラルも容易に破ってしまうことがあるのが、宗教というものの本質なのである。「ネタにマジレスカコワルイ」は到底通用しない…。
 「イスラム原理主義者なんて大多数の善良なムスリムとは違う、極端な一派と一緒にすべきではない」という意見もあるし、またその通りでもある。しかし、よせばいいのに宗教を揶揄してそういう原理主義者を大騒ぎさせることによってその“善良なムスリム”までもが色眼鏡で見られてしまうことになる状況を作り出してるわけだし、また過激派とまではいかない善良な信徒であっても、偶像禁止の教義を信じてる以上ムハンマドのイラストは苦々しいものであることに変わりはないわけだ。日本のどこぞのテレビ局のニュース番組では、街頭で件のイラストをホレホレと見せながらムスリムの人に「どう思いますか」とインタビューしてたらしいが、一体何を考えとるのか。パリと同じことを東京で起こすつもりか?
 上述の通りパリではこの問題を「表現の自由への挑戦」と位置付けてのデモ行進が盛んに行われてるらしい。日本の報道や芸術表現系の人たちの中にもこれに同調する意見を表明してる人が少なくないようであるが──やはりそこには一定の節度というものが必要でしょう。誰かにとっての譲れない一線を挑発的に逆撫でして民衆を生命の危険に晒してまで主張するほど大事なのだろうか、その自由とやらは。自由とは常に責任が付きまとうものであるということ、大人ならちゃんと認識して自覚してもらいたいものである。
 事件以降パリ市内でイスラム過激派によると思われる事件が他にも続く中『シャルリー・エブド』誌は次号でもまたムハンマドの風刺画を掲載したらしい。まあ、襲撃されるのも自由ではありますが、一般市民を危険に巻き込まない方がよいと思います──

 









 2014年大みそかの紅白歌合戦、自宅でゆっくり観させていただいた。こちらで書いた『6人での紅白』は実現せず、そういう話すら持ち上がらなかったみたいである…。それどころか有安杏果がインフルエンザでダウンして欠場、4人での出場である。他メンバーやモノノフが彼女を思いやる姿が随所に見られたのはよかったけど、でも、その場面にあかりんもいてほしかったような──せっかく『マッサン』の主題歌を歌う中島みゆきも出場してたというのに──みゆきといえばももクロの今年最大のヒット曲『泣いてもいいんだよ』は彼女の曲だったのだが、今回ももクロが歌ったのは別の曲であった──
 さらにはクリス・ハートがみゆきの『糸』のカバーで出てるのにみゆきとのからみは全くなし、他にもせっかく椎名林檎が出てるというのに、その林檎の曲で今年新境地を開いた石川さゆりが歌ったのはいつもの『天城越え』だったり、神田沙也加とイディナ・メンゼルの『アナ雪』コラボとの出番を離して自身も『ありのままで』を歌ったMay.Jを蚊帳の外に置いたり、ラスト全員での『螢の光』(ご存知の通りスコットランド民謡である)合唱の時に、せっかくみゆきの出番までNHKホールに残っていたマッサン役の玉山鉄二とエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスを出さなかったりなどなど、せっかくのリンケージを活用せずにいろいろと野暮で無粋な場面が目立ったような…。
 以前からこのコーナー記事で「紅白にJ-POPって必要か? 無理に若年層に媚びなくても…」と書いてきてるが、そうはいっても1年の集大成であり、何だかんだ言っても家族そろってお茶の間にそろってテレビを囲むいい機会ではあるのだから、せっかく若者向けソングとシニア向けを両方盛り込むのなら、両者のリンケージをもっとうまく活用すればステージ的にも幅が広がるし「今の若い人の歌はわからん」「じっちゃんばっちゃんが好きな歌ってかったるいよ」的な世代の分断だけでなく「演歌は苦手」「アイドルやジャニーズはどれも同じ」的なジャンル嗜好の分断の緩和にも効果的なのでは? 坂本冬美のバックでももクロ踊らせたり細川たかしに関ジャニ∞引き連れさせたりするくらいではまだまだ甘いでしょう。日本エレキテル連合の「ダメよ~、ダメダメ」にあやかって森進一の往年の名曲『年上の女』』を持ってきたり、やしきたかじんを偲んで親交のあった天童よしみに『やっぱ好きやねん』を歌わせたりなどの粋な演出がもっとあってもよかったのでは?
 今回の紅白が『歌おう。おおみそかは全員参加で!』をテーマにしてて随所で「みんなで歌おう」を前面に出してただけに、世代を超えてそれぞれが今まで聴かず嫌いしてた分野の曲やアーティストを改めて発見できるせっかくのいい機会に、そのためのネタがいくつも転がってたのを無駄にしてしまったように思えて、それが少なからず残念なところなのである。
 その辺、今年の大晦日の紅白では考慮してみていただきたいものです。せっかくJ-POPの若い歌手を出場させて年配の視聴者に観せるのであれば──