ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -33ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 ある年末の帰省時の寄り道で、和歌山市で一泊した翌朝、例によって途中の寄り道散策をするにあたって、和歌山県って地形的になかなか寄り道しづらくて訪れる機会も少ないだろうから、せっかくのこの機会に少しでも見ておきたいと思って、南海電鉄に乗り込んだ後、海辺へ向かう支線に乗って、和歌山の海岸線を見てみたいな、でもってそこから淡路島もしくは四国方面に船でも出てれば御の字だ──そんな程度のつもりで、特に考えもなく僕はその路線を選び、淡路島行きの船が出てるという港の最寄りであるその駅で降りたのだった。すでにそこが大阪府であるとも知らずに…。
 南海電鉄の和歌山市駅から難波方向に数駅、みさき公園駅で乗り換えたのは、同じ南海電鉄の多奈川線という短い支線。そこから終点ひとつ手前の深日港駅で降りた時の僕は、散策の動機が上述の通りであったこともあり、そこが和歌山県内だと思ったというよりも希望的にそう思いたかったというべきか。そしてまた駅近辺の、港に至近の鄙びた海辺の街的な佇まいには、大阪府よりも和歌山県の方が似合っていた──だけど、そこは和歌山県ではない、まぎれもなく大阪府泉南郡岬町である。いわゆる“大阪”を思わせる匂いはこれっぽっちも感じさせない佇まいであるが、しかしそこは厳然として大阪府なのである。
 深日港駅は関西大手の南海電鉄とは言え、郊外の支線の駅であるから駅舎は小さく、駅前も広くはない。周辺は上述の通りの鄙びた海辺の街であるから、いわゆる駅前繁華街の賑わいとも無縁である。一応淡路島へ向かう定期航路を有する港の最寄りなのだからもうちょっと人っ気があってもよさそうに思えたけれど…、その日があいにくの雨模様だったからかも知れないが──
 あまりハッキリとは覚えてないけど、連絡船乗り場へは、雨の中大荷物抱えてだったけどあまり歩いた記憶がないので、距離的には結構近かったような気がする。船にはほどなく乗れたが、フェリーのような大型船ではなく、瀬戸内海で見られる水中翼船クラスの小型高速船であった──その日は雨足もそれなりに強かったけれど、海の方も結構波があって、淡路島へ向かう小船は揺れたのなんの…。乗船時間は1時間もなかったけれど、淡路島に着いて港に降り立った時はもうフラフラで、しばらくそこに座り込んでしまった…。
 で、降り立った淡路島の港は兵庫県洲本市。ここも神戸や姫路と同じ県というのが何か信じられない佇まいである。離島とはいえそれなりの都市規模と人口を有してるはずなのだが、洲本の市街地からははずれているのか、どこかにあるはずの繁華街的なものにはお目にかからずじまいであった──雨も上がったようだし、しばらく周辺を散策した後早々に鳴門行きのバス(長距離バスとかではない、普通に路線バスである)に乗り、橋を超えて四国の地、徳島県鳴門市に降り立ったのだった。
 ──って、和歌山県らしいけど和歌山県ではない、大阪府だけど大阪っぽさはこれっぽっちもない、そんな港から対岸の、兵庫県だけど兵庫県っぽさを感じない街から普通に路線バスで四国へ…、という、およそ4つの府県それも海を2つ超えての旅程というのがとてもじゃないけど信じられなかった、そんなこの日の行程。そして今回のこの記事は、本来は大阪府の街散策がメインテーマだという──
 ちなみに、深日港からの淡路島方面行きの航路は、その後廃止されてしまい、他の航路も廃止されたため長らく深日港からは定期旅客航路がなくなっていたのだが…、今秋16年ぶりに復活するらしい。サイクリング客などを当て込んで観光収入が見込めると地元では見ているようである。大阪府であって大阪ではないあの街のことだから、吉本的ネタではなくマジで入れ込んでるのだろうけど、果たしてどちらに転ぶか──?

 









 先々週の6月末日の昼過ぎあたり、ちょうど仕事休みでパソコンに向かって当サイトの新記事を書いてる真っ最中にテレビのニュース速報で、東海道新幹線の車内での焼身自殺事件が報じられた──もちろんその日の段階では事件の詳しい背景はわからないから『グミシン』記事で詳細を論評することはできないし『ヒヤリハ』記事で防災の観点から論じるにしても燃料が灯油かガソリンかもその日の段階ではわからなかったから避難のポイントとかも論評しづらい。背景にある年金の不足による生活不安とか、この『ノンセク』向けで書けそうな周辺情報が徐々にわかってきたのも翌日以降のことである──要するに、サイトの新記事をまとめ更新作業真っ最中のこの日の段階で、まだこの記事を取り上げるにはデータ不足だった──
 そしてその日、新記事を書いてUPしようとしてたのがまさに上記3コーナー『グミシン』『ヒヤリハ』『ノンセク』であった──このサイトのコーナー新記事UPにあたっては、コーナーによって更新頻度に極端な偏りが出ないために、ある程度ローテーションを考えながら順繰りに書いていく、という自分なりのパーソナルルールを設定してる僕。上記3つのコーナーよりも『おすもう』や『メディラビ』コーナーの更新が先である。本来こうして今回『ノンセク』記事を書いてるのは、かなりローテーションを飛ばしているのだが、そこはこの『ノンセク』コーナーは慢性的に更新間隔が空き気味になってるからその埋め合わせってことでヨロシクなわけだが──
 しかし前回から今回までのわずか2週間の間に、あれほどの大事故というか大事件で新情報も続々と出まくってたのに、あっという間に落ち着いてしまって、早くもニュースとしての旬は過ぎ去ってしまった感が…。この『ノンセク』コーナー的な観点で論評するタイミングはすでに逸してしまった感がある。『グミシン』『ヒヤリハ』コーナーもまたしかり。来週以降の次回更新で取り上げても今さら感は否めないだろう──てな感じで、旬のテーマをやり過ごすことは各コーナー今までにも結構あったりしますw これもサイト内の各コーナーに偏りが出ないようバランスを考えながら記事更新をしていく方針ゆえの弊害なのでありますが──
 ──まあ、そんなわけで、先の新幹線内焼身自殺事件について当サイト記事では、少なくともそれメインで書くことはないと思います。でも何か別のテーマの記事でついでに触れることはあるかも知れない──そんな感じでメインでの書き時を逸した件に関して、別件テーマの記事で関連づけて触れるということも僕は結構やってますけど、わかりますか?
 毎日毎日サイト記事書けるわけでもないし、タイミングによって速報性が失せてしまう場合もあるのはこれはもう致し方ないわけで、そういう旬ハズレの題材をどのように扱うか…、このノウハウは単にサイト記事書くためだけでなく、日常生活とか仕事にも生かすことはできるのではないかと、思いません──?

 









 以前にこちらの記事でちょろっと簡単に触れた時点では、こうなる(しかもこんなに早く)とは全然思ってなかったのだが…、ゲスの極み乙女。がここへきて一気にブレイクしてるようである──
 バンドユニット名にチラホラ見られるキラキラ☆ネームの代表格としてSEKAI NO OWARIを取り上げた際に似たようなキラキラ☆ユニット名の例として神聖かまってちゃんと共に彼らにも言及したのだが、その際に「セカオワとは違い多少楽曲世界にも悪い子ちゃん的な匂いはあるのでユニット名との乖離はあまり感じない」と書いた。基本的にそれは今もそうではあるのだが、それでもB級というか割りとコアなファンたちの支持の中での活動であるからさほど気にならなかったわけである。しかし楽曲がCMに使われてテレビでバンバン流れたり、映画の主題歌に使われたりと立て続けにメジャーシーンで曲も流れ、彼ら自身もテレビで顔出しするようになってくると、ゲスの極み乙女。というこのユニット名は、若者中心のコアな支持層以外のお茶の間の年配の人たちに受け入れられるのだろうか──?
 これまでの一般的なJ-POPアーティストたちの流れからいって、彼らは早ければ今度の紅白歌合戦にも出演者に選ばれる可能性が大きそうなだけに、そうした世間一般の感覚もつい気にしてしまう──両者には関連はなく命名も彼らの方が先らしいが、彼らが知られるよりも前から「ゲスの極み!」を持ちネタとしてる漫才のハマカーンが(メンバーの片割れが神田うのの実弟という話題性もあって)お笑い番組などお茶の間での露出が割りとあっただけに“ちょっと下品なお笑いコンビの後追い2番煎じ”みたいな印象を持つ人もいるかもな…、というのは否めないわけだ。
 最近作の『私以外私じゃないの』や『ロマンスがありあまる』などを聴くと、少し前の『猟奇的なキスを私にして』などに比べて上述の“悪い子ちゃん的な匂い”はかなり薄まって一般寄りになってきてる気がする、歌詞世界もメロディーラインも。もともと音楽的なクオリティは高く、特にサビのリフレインがとにかく印象的な楽曲世界だったから、歌詞世界を一般寄りにしてタイアップでメディアミックスすればブレイクするのは、当たりまえだけどね~♪ 実際僕も『私以外──』のサビが脳内でリフレインし始めると止まらなくなってしまう現象がずっと続いてるし──ボーカルのえのぴょんのあの裏声はマジでクセになります。
 そんなふうに、ブレイクすべくしてブレイクした感もあるゲスの極み乙女。であるが──こうなってくるとますますこのユニット名が今のままでいいの? なんて思えてしまうわけなんです。まあ、ユニット名のインパクトもブレイクに一役買ってる面はあるだろうし、それも含めてアーティストの個性であり、ゲス極。以外ゲス極。じゃないの~♪ …ってことなのかも知れないけどねw

 









 先月受診した会社の定期検診の結果が、先日通知されてきた。前回の検診では、再検まではいかなかったが要注意経過観察レベルで、胃にポリープ状の病変があると言われてて、その後も時折胃が痛むことがあり、しかし酒を控えたりとかはしないで毎晩の発泡酒の晩酌だけでなく仕事帰りの帰途での缶チューハイの習慣もやめられなかったので、今回の検診では胃の病変の進行をかなり懸念してたのであるが…、胃については今回『異状なし』判定であった。もちろん酒がらみの肝機能も尿酸値も正常の範囲内。わずかに空腹時血糖が微増してて要注意マークがついてたものの、他はメタボもない、心電図も正常、ここ数年連続して基準値超えの高数値だった悪玉コレステロールも正常値ラインを大きく下回るなど、総合的には昨年よりも健康体に近づいたのだった。数値上は──
 以前よりこの『メディラビ』コーナーで検診について触れるたびに書いてきたことだが、今回も同じことを強く感じる。「検診の結果ってどこまで信頼できるの? 正常値と診断されてるこれってホントに何ともないの?」…実際に前回以降全く胃をいたわっておらず、胃の方からも痛いぞのサインが頻繁に出てた状況で、ポリープ状の病変が逆に消えちゃった? まあ、血液検査を始め他のデータとの関連性も考え合わせてそういう判定になってる(んだよね、もちろん)のだろうから、信じていいのだろうけど。
 で、今回の検診では、体重が前回よりも4キロ減ったのがちょっと気になってたりする。元々僕は177cmの身長に対して体重53kgという超痩せ型だったのが、ある年齢を境に急激に太り始め、MAXで74kgにまでなったのだが、5年くらい前から徐々に体重が減り始めてだんだん元の痩せ型の体型に近づいてきてたのだが、今回の計測では55kgと、昔の超ガリガリ時代の体重にほぼ戻ってしまったのである。判定ではもちろん「痩せすぎです」と言われた──他のデータを見る限り癌その他の病気は疑わなくてもよさそうだし、仕事の関係でとにかく1~2万歩は毎日歩くという習慣のせいなのだろう。とにかくメタボが解消されて体脂肪値も下がったわけだから、いい方に考えてよいのかもしれないけれど、でもMAX70kg超えから痩せすぎ体型に逆戻りとなると、いくら昔に戻っだけだと言ってもやはり不安にはなってしまう。向こう何年かも体重減り続けて、50kgを割るようなことでもあれば何かの異変を疑うべきだろうな…。
 ──というような不安を、決定的な病気判定が出たことなど一度もないのに、検診結果をもらうたび毎回おぼえてしまう僕。これでもし、いつかの検診で真面目に癌や糖尿が疑われる結果でも出てしまった日には症状の進行よりも先に精神の不安定から心身症になりそうな気がしてしまうのだが…? って、今回の結果で不安がってる時点ですでにそうなりかけてる──?

 









 貴乃花親方の父親であり、現役時代の二子山部屋の師匠でもあった元大関先代貴ノ花が生前最後に人前に姿を見せた時、すでに口腔底癌がかなり進行していた親方(当時)の顔色は土気色で表情にも生気がなく、歩くのさえも周囲の人に支えられてやっと、という状態であった。息を引き取るほんの数ヶ月前、そのような状態でありながら駆けつけたその場所は両国国技館。部屋の師匠時代の愛弟子であった大関貴ノ浪の年寄音羽山襲名披露の断髪式の場である。すでに部屋は貴乃花親方に譲られて貴乃花部屋になっており、その時点での師匠は貴乃花親方ということになる。なので最後の大銀杏を切り落としたのは貴乃花親方であるが、現役時代の師匠として、病身を押して断髪式でハサミを入れるために駆けつけたのであった──それからちょうど10年後、貴乃花部屋付きの音羽山親方として後進の指導にあたっていた元大関貴ノ浪の突然の訃報が伝えられる。二子山親方の享年である55歳よりも一回りも若い43歳、まだまだ親方としてこれからだというのに…。
 故音羽山親方の貴ノ浪は出世もとんとん拍子で新十両も新入幕もかなり早かったし、大関にまで昇進して優勝も2回ある。強い力士だったと言っていいのだろうけど、実は僕的にはどうもあまり強かったという印象がなかったりする。なんか相撲が体力と大柄な体格に任せての大味な印象が強く、決して技が冴えるというタイプではなかったからだろうか。実際それを象徴するかのように三賞の獲得数は「え? これだけ?」と思えるくらい少ない。大関を陥落後、引退までの晩年を平幕の上下で過ごした時期が結構長かったことなども、実際よりも印象が落ちる要因かも知れない。しかしながらそれでいて力強さを前面に出してトントン拍子で大関まで行くのだから、強さは並はずれてたのだろう。もっと稽古で技を磨いていればあるいはもうひとつ上に行って、若貴と並んで同部屋横綱3人という可能性もあったのではなかろうか?
 そんなわけで、現役時代は正直物足りない感じであったが、それでも現在の日本人大関3人よりは大関としても力士としても実力はあったとは感じる。これはまあ、それだけ現在の3人が不甲斐ないということでもあるのだが──この辺は音羽山親方となった本人にとっても同じ思いだったのではなかろうか? 貴乃花一門に移ったとはいえ元々二所ノ関一門だった音羽山親方にとっては稀勢ノ里や琴奨菊は元同門だし、特に稀勢ノ里は早くから大きく期待されてたわけだから「もっと頑張れよ」という思いはきっと強かったと思うぞ。
 親方になって以降、それなりに協会の仕事でも後進の指導でも頑張ってたようではあるが、あまり目立たない気がしていた。部屋付きであり師匠ではないから弟子の力士について語る機会もなかったというのもそうだが、親方になってからも一度生命に関わる大病をやってることで、あまり無理がきかなかったというのもあるのだろうか? その時も確か心臓に関わる病気だったようで、今回の急性心不全の要因にもつながってたのかも知れない──時々相撲中継に出演した時の解説は的確でありながら語り口もソフトで力士全体への愛情を感じるものであり好感が持てたし、実際相撲界の未来のことも常に気にかけていたという。だとしたら、親方として大相撲を盛りたてるためにこれからやりたいこともきっとたくさんあったことだろう──今回の急死は、知り合いに逢うために訪れた大阪のホテルでのことだそうだ。まさかそこで突然、なんてことは当の本人も全く思いもよらなかったはず。最も無念なのは他ならぬ音羽山親方本人であることは間違いない。
 そんな、音羽山親方の志半ばでの無念を、協会の親方たちは是非とも受け止めて角界の発展への思いを引き継いでいってもらいたい。そして、残された現役力士たちは親方の想いにどのように応えていくのか? 特に上述の日本人3大関。ここで発奮しなければ男ではないぞ!

 









 20歳以上の日本国民であれは、有職者も無職者も学生も、年金を支払わなければならない。厚生年金か国民年金かの違いはあれど、これは全国民共通である。その公的年金に関わる業務を政府より委任、委託を受けて運営しているのが日本年金機構である。当然、徴収する対象であるところの国民ひとりひとりの情報はすべてデータとして所蔵している。つまり、僕のもあなたのも、あらゆる国民の個人情報という個人情報を、この日本年金機構が握っているわけだ──
 その日本年金機構から、100万人をはるかに超える人数分の個人情報が流出したという。システムサーバーに外部の何者かが不正アクセスしたのが原因だというのだが、職員がメールの添付ファイルを開いたことによりウィルス感染したためにこのような事態になったのだという…。すでに多くニュースで報道されているしネット上でも意見が出揃ってるので繰り返さないが…、ハッキリ言ってお粗末極まりない話である。不用意に添付開けてウィルス感染って一体いつの時代だよ。普通の企業法人、いや一般の個人レベルと比較してみてもネットリテラシーが10年以上遅れてないか? 今はもう20世紀じゃないんだぞ。今時こんな古典的な手口に引っかかってしまう人がま~だいるの?
 添付を不用意に開けた職員は1人や2人ではないらしいし、個人情報データの保管状態もお粗末なもので、パスワードすらまともに設定されてなかったらしい。問題発覚後の上層部のエライさんたちの釈明内容もなんともはや…、である──こんな団体が、ほぼ全部の国民の個人情報を一手に握ってたという事実。そして今回現実にそのうちの100万人分以上が拡散してしまったという現実──こんな団体に大事な僕たちの年金が左右されてしまうというのって、とっても恐ろしいんですけど…。
 一般企業だとPマーク(プライバシーマーク)制度といって"個人情報保護の体制を整備している事業者を認定する制度"があり、申請して取得するのだが、それが認められるには条件がいくつもあり、それらをクリアしてPマーク認定されることはその企業にとっては大いにステータスになる──それだけに、民間でもある程度以上の規模の企業になると個人情報意識がかなり高まってきてるのである。明らかに公的機関や自治体の方が民間よりも遅れている。これは間違いない。
 年金機構だけでなく、住基ネット関係でも市役所や町役場の情報意識の低さはあちこちで露呈してるのを目の当たりにした人も少なくないことだろう──そんな状況が野放しのまま、マイナンバー制度がもうすぐ本格導入されようとしてるわけなのですよ。年金情報どころではない、それこそ病歴とか犯罪歴とか、ありとあらゆる個人情報が適切に管理されるのかどうか…、先の年金機構の一件のあまりのお粗末さを見るにつけ、その辺甚だ心もとないです。

 









 つい先頃、国会で選挙権年齢を現行の20歳以上から18歳以上に引き下げるという案が満場一致で可決した。このこと自体には賛否両論寄せられており、僕的にも功罪はそれなりにあるとは思うが、今回の記事はそれがテーマではないので割愛。実は今回のこの決定に関して、ある週刊誌で読んだ某コラムニストの記事で思わず「そう言えばそうだよな。これは失念してたわ…」と僕は心の中でヒザを打って叫んだのだった──
 選挙権というのは、日本国憲法第15条で言うところの、公務員を選定及び罷免する権利であり、その選挙については成年者による普通選挙が保障されている。そしてここでいう"成年者"とは20歳以上と、こちらは憲法ではないが民法で規定されている。憲法は民法よりも上位法で優先されはするのだが、しかし下位法ではあってもそこでの定義と異なる条件で、同じ用語を憲法条文で謳うのは問題ありだろう──集団的自衛権がらみであれだけ護憲だ改憲だ、憲法解釈がどうだと与党も野党も、さらには憲法学者まで巻き込んで舌戦を繰り広げてる中、護憲の立場であるはずの野党も含めて満場一致で可決って、おかしくありません? 道義や人情はともかく法理論的に。現行の憲法の条文のままで選挙権年齢の改正をするのは、条文の趣旨からははずれるのでは? 護憲派の皆さん、それでいいんですか?
 ──憲法ってのは意外に融通のきかないものである。いくら意味は通じると言っても、用語としての定義をはずれる適用をするとなると憲法上問題が生じてしまう。それを解決するには憲法の条文を改正ということになるのだが、それには96条の規定により総議員の2/3以上の賛成を経て国会発議により国民投票で過半数の賛成による承認を要する。今回の選挙権年齢の件で言えばこの後、憲法15条の改正発議を経て国民投票が開かれなければならないのだが…、そんな動きは全くないまま変更の日取りまで決まってしまってますね…。それって15条的にも96条的にも違憲では、ありません?
 憲法と言えば、こちらで書いた"表現の自由(集会・結社・言論・出版その他一切)"も憲法21条で保障されているものである。つまり「『絶花』みたいな本出すな」と出版社や作者を責めるのは、憲法の条文上は決して正しいとは言えない行為であろう。道義や人情は別問題。法理論的に、である。しかし、それらを声高に主張してるのは、むしろ普段護憲護憲言ってる人たちの方だという…。
 ちなみに生存権は憲法25条である。その1項に謳われてるのは「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というもの。生きてるだけではダメなのはもちろん、健康なだけでもダメなのである。「文化的な生活」が出来てなければ生存権は侵害されてることになる──ブラック企業の社員とか、派遣社員なんかは、果たして生存権を侵害されてないと言えるのだろうか…? そんな中での派遣法改正とかの動きは、あきらかに立場の弱い労働者にとって不利であって、ますます生存権が脅かされる人が増えることだろう。そんな法案をどうしても通そうというのなら憲法25条も改正しなければならないのだが──これはさすがに国民投票で賛成する国民はいないだろうな…。
 ──とにかく、日本国憲法には9条しかないと思ってる人が多すぎるよ。9条さえ守ってれば他の条文は関係ないと思ってるのだろうか。「改正されてもいい」ならまだしも「条文そのままで無視して好き勝手していい(憲法を侵していい)」人たちが護憲護憲と騒いでるこの不思議。そしてそれは改憲派も同じ。15条や25条をとっとと改正した上で新しい条文に則って選挙権年齢なり派遣法なりを改正すればいいのに…。結局みんな、ホントは憲法なんかどうでもいいって認識なんじゃないの?

 

 先週この『ノンセク』コーナーで『絶歌』(元少年A/太田出版)という本の出版及び流通に関しての記事を一度UPしたのだが、思い直してその10分後くらいに削除した──その記事では"表現の自由"という観点から、たとえ道義的に疑問があり、当事者感情を逆なでして、一般読者的にも読んで気持ちのいいものではなかったとしても、しかしたとえそのような内容の本であったとしても"表現の自由"が憲法で規定されてる趣旨を考えると、それを出版して流通することを絶対悪として封じてしまうことは果てしてどうなのだろうか…? という個人的な疑問を、アマチュア創作同人歴を持つ立場も踏まえつつ呈した、のだったが──上述の通り記事をすぐに取り下げたわけだ…。  実際にネット上に載ったのは10分ちょっと。時間が僅少であることやページに検索よけタグがついてること、さらに普段のこのサイトの閑古鳥ぶりから考えても記事が誰かの目に触れた可能性は限りなく低い。つまりクレームとか炎上とかの類では決してなく、全くもって僕自身の意志での自主削除である。自由には責任が伴うものであることや、表現に対する酷評も当然表現の自由の範疇であり、その酷評を受け止めるのも自由に伴う責任のうち、ということまで豪語した上で意見を投げておきながら、結局他者の声を受け止める責任を負うのを恐れて自分から記事を取り下げるという、何と言う覚悟なきヘタレ対応…。  同時に『グミシン』コーナーの方でも、やはり同じく『絶歌』がらみで新記事をUPしたのだが…、こちらも同時に取り下げました──そちらは"報道の自由"の観点からであり、こちらも「書くことそれ自体を許さん!」と頭から決めつけてしまうのはどうなの? ということを言おうとしてたのだが、上述と同様のヘタレ対応になってしまった次第である。僕自身がそういう声に、しかも実際に浴びたわけでは全然ないのに一度上がろうとしたリングを自ら下りて"不戦敗"してしまったってこと…。  ──まあ、上述の行間から察していただける通り、一般常識的感覚からは決して快い内容ではない、特に関係者にとっては到底共感はできない内容の記事には違いないから、空気を押し切って強引に発信する必要もない。あらゆる表現が自由であるということは、同時にその自由を行使しない自由も守られるべきということであるから、今回の対応も悪いことでは決してないはずですけどね。  それだけに、そういう空気の中強行的に出版にこぎつけ、あまっさえ非難の声が殺到する中、増刷にまで踏み切った出版社&作者の行為については、決して「やめろ」と強要したりはしないけど、その神経については小一時間問い詰めたい気がする…。表現や報道の自由だと理屈で思ってたって、やはり堂々と公式に主張しづらいことはある、僕はそう思っちゃうもん、どうしても──  








 表題の言葉。どういう意味だと思いますか? 語感的には何となく『右の耳から左の耳』みたく、サラッと適当に受け流してやり過ごすみたいな印象に『♪チャラリ~ 鼻から牛乳~』みたいなおフザケ感も加わって「それって高田順次みたいなテキトー男のこと?」なんて思ってしまいそうである──「あの人は目から鼻に抜ける人だ」なんて言われた場合、どうにもその人のことをディスってるのではないかと思ってしまいそうなのだが…。
 実はこの言葉の意味は「すぐれて賢いこと、また、ぬけ目がなく、敏捷なことの形容」(by.広辞苑)なのである。目と鼻は顔の中で最も近いところにあり、まるで目から鼻へ抜けるように早い、という例えで、利口で物事を理解したり判断したりするのが素早いことを指している。これは定かではないが、奈良時代の大仏完成間近の頃に、職人が大仏の片目がないことに気づき、大仏の片目を担いで足場を登り、空洞になってる大仏の目の中に入って内側から嵌め込んだ後、鼻の穴から出てきたのを見て「あの職人は賢い」という評判が立ったことに由来してるという説もある──いずれにせよ『目から鼻に抜ける』人とは、機知に富んでて敏捷な人、ということになる。言うまでもなく立派な褒め言葉である…。
 しかし、実際に日常会話でこの言葉を使うことって、まずないよね。僕も辞書だったり学習参考書だったり古い小説だったりで読んでたからこの言葉の意味は知ってるけど、昔みたいに本を読まなくなった今の若い人たちは、果たしてこの慣用句を知ってるだろうか? 授業で教わる機会もあまりないだろうし、いきなり言われても「目から鼻に抜ける? はぁ? どういうこと?」状態になってしまうのではなかろうか? 何も知らない状態で言葉だけ聞かされてしまうと、語感的には上述の通りであるから、何となくからかわれたような気になってしまうかも知れない──その辺、ある年代以上の人は若い人を褒める時には気をつけなければ、褒め言葉のつもりで用いた表現がディスりと思われてしまって(言うまでもなく敏捷で賢い=慣用句それも現在では少なからず廃れてる言葉まで知ってる、ではありませんから)逆恨みを買ってしまう、なんて可能性もあるかもですよ──
 ちなみに、泣いた時に涙と一緒に鼻水が出てきたり、炭酸飲料飲んだ状態で鼻をつまんでゲップすると目に来ることからもわかる通り、目と鼻はつながっている。つまり人の(というか動物の)顔の構造上、誰だって目から鼻に抜けてるわけである。なので国語は苦手だけど理科は得意、というような子だったらこの言葉を言われると「当たり前じゃん、あなただって目から鼻に抜けてるよ」って感じで、何言ってんだこの人は、みたいに思われてしまうかも知れない。まあ、この言葉自体が半ば死語になりかけてる現在では「あなたは目から鼻に抜ける人だ」などと若い人に言って、額面通りに褒め言葉として受け取られる可能性よりもその逆の可能性の方が高いのは間違いないでしょうね──こうして瀕死の言葉が次々と死語になっていってしまうわけね…。

 









 槇原敬之が『もう恋なんてしない』『北風』などの一連のラブソングを大ヒットさせてブレイク真っ最中だった'90年代前半頃、雑誌『月刊カドカワ』の総力特集の中で「歌詞に出てくる『キミ』はいつか『おまえ』に変わる日がくるのでしょうか?」という読者の質問に対して「うーん、どうかなあ…。でも、ずっと青春を歌い続けてそこから抜けられなくなるよりは、僕も歌も上手く年齢を取っていきたいので、あるいはそういう日も来るかも知れないなぁ」と、当時23歳の彼が答えてたことがあった──つまりはその年代その年代でリアルタイムの等身大を歌っていきたい、ということだろうか。
 現在46歳のマッキーは、30代半ば以降、ブレイクした頃のようなラブソングを歌うことはほとんどなくなったが…、当時語ってたような『おまえ』と呼ぶ世界ではなく、妙に善導的なメッセージソングがメインになってる感じがある。その歌詞世界が好きか嫌いかは人それぞれではあろうが、少なくとも彼の実年齢相応とは、僕には思えないのは否めない。当時彼が語っていた「歌も自分も上手く年齢を取った」状態と今の槇原敬之の楽曲世界は違うというべきであろう。
 今現在のJ-POPシンガーで、等身大の世界を歌って同世代を中心にウケている、といって真っ先に思いつくのは、やはり西野カナであろう。地元の東海地方での大学生時代から卒業後の現在に至るまで『逢いたくて逢いたくて』のような恋愛モノだけでなく『Best Friend』などのような女友達同士の友情など、その時々の今現在の等身大を歌って、特に女の子を中心に支持されている。
 この西野カナ、ギャル風のファッションやメイクの印象が強いが、素の顔立ちそのものは決して派手ではなくむしろ素朴で庶民的な感じなのだが、その辺もかえって同世代の女の子たちにとって親しみを感じさせるポイントであると同時に「わたしたちも頑張れば彼女に近づける」と思わせるポイントなのだろう。そんな、近づけそうな距離の同世代の女の子が等身大の世界を歌うのだから、共感を集めるのは無理もない──
 しかし現在26歳の彼女がアラサー、アラフォーになった頃、果たしてどのような世界を歌ってるのだろうか、というのは今のところはまだ見えてきてはいない。個人的には10年後の西野カナの未来予想図に最も近いポジションはJUJUではないか、なんて思ってる(楽曲世界観も何となくそうだけど、それ以上に上述のファッションやメイクの印象に対して素の顔立ちは…、という点で共通点があるな、って感じ)のだが、あるいはマッキーのように路線がガラッと変わってしまってるかも知れない──とは言え、もちろん今の西野カナには、等身大の魅力を存分に発揮して、自身のアーティスト世界&今現在の年代の女の子としての真実を惜しみなく表現して欲しいと思います。将来的にどのような路線に舵を切るにしても──