ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -27ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 いつ頃から言われ始めたことなのかは定かでないが、少なくとも現在後期アラフィフの僕が高校生くらいの頃には広く言われていたことである──A型は几帳面でB型はマイペース、O型は親分肌でAB型は天才肌、そう、血液型による性格診断である。そして、その当時からその性格診断を信じる人がいる一方で「関係あるわけないじゃないか」と完全否定する人も何人もいたわけだが…。
 こんな風に血液型を気にするのはどうやら日本人くらいなものらしい。もともと血液型による性格診断なんて言い始めたのは日本の某学者だし、その学者も世界に向けて学会で提唱とかしたわけではない。なので欧米で血液型占いをやってる人なんてまずいないし、そもそも自身の血液型を知らない人も珍しくないという──まあ、日本のように4つの血液型がきちんと4:3:2:1の比率になっておらず大半がOかAの国が多いというし、なかには9割以上がO型という国もあるくらいだから、血液型による性格分類がまるで意味を成さないわけだ──で、血液型否定派はそのデータをもって「そらみろ、血液型による性格診断なんて全く意味ないんだよ! そういうこと言ってると世界中の嗤いものだぜ」などと勝ち誇りたがるのだが…。
 しかし、欧米では血液型占いは普及してなくても、星占いは日本以上に広まってるんですよね。広まってる範囲だけでなく、誕生してからの歴史も西洋占星術の方がはるかに長い。そして、欧米人の中には「占星術は科学よ」なんて言ってのける人さえもいたりします──血液型を信じる日本人のことを欧米人が莫迦にできるとは思えないのですが、ねぇ…。
 日本の性格診断に用いられるいわゆる血液型はABO式。血液型には他にもRh式とかnm式とかいろんな種類があるわけだがそれらはとりあえず想定はされてない。そこで反対論者の「人間の性格が4つに分けられるか」論になるわけだが、しかしあくまでそれらが基本ベースであり、それに生育環境やらが加わることで多様性を帯びてくると考えれば、あながちあり得ないとは言い切れないし、現に血液型本とかを見ても決して単純に4分類はしておらず、さまざまな要素を含めて解説されているのだが、否定論者はアタマから否定してるがゆえにそれら解説書を読むことはないので、そうした多様性の解説には全く触れておらず、単に「あるわけないだろ、莫迦」と侮蔑的に叫ぶのみである──こちらのラストにも書いたことだが、心情としては可能性を信じて分析を試みてる方の側に軍配を上げたくなるではないか。
 ABO式の分類は血中の凝着源と凝着素の含有パターンによる。その血液が脳に送られることによって酸素が供給されて脳が働くことを考えれば、そして心=大脳であることを考えれば、現時点で科学的に全く証明されてなくても、血液型が性格に影響を及ぼしてる可能性は皆無とは言えないのではないだろうか?

 









 小さい頃からテレビの歌番組を見て育ってきた僕。両親の見ていたいわゆる歌謡曲からアイドルが登場し、フォークソングから派生したニューミュージックなどに親しみながら青春時代を過ごした僕であるが、情報源の主力がテレビであるがゆえにテレビでよく見る歌手に偏るのは否めず、テレビで見る機会の少ない洋楽系には必然的にあまり詳しくならなかった。中高になると同級生の中にも洋楽マニアが何人もいて、彼らの深い知識になかなかついて行けなかったりしたものである──
 しかし、それでも中学以降になると自室で勉強してるふりして夜な夜な深夜ラジオ聴いたりしており、必然的にラジオから流れてくる洋楽に慣れ親しむ機会も多く、当時の全米TOP40の常連アーティストの曲くらいは何曲も口ずさめたし、またその当時のアイドル曲にも洋楽の日本語カバーがいくつもあったりして、それを通じて原曲やアーティストを知ったりもした。他にもジョン・トラボルタ主演の映画で火がついたディスコブームとか、小林克也さんの音楽番組とか、基本的に洋楽には疎い僕の周囲にもそれらの曲に導入してくれる窓口がいくつも開かれてたような気がする。
 その、洋楽に疎い僕のような人間に開かれてた窓口って、最近どこにあるのだろうか…? 仕事で日常的に車に乗ってるのでラジオは常にかけっ放しにしてるのだが、洋楽が流れてくることはとても少ないし、洋楽専門番組などにはまずお耳にかかれない。なので最近の洋楽アーティストで名前が出てくるのもテーラー・スィフトやジャスティン・ビーバー、ブルーノ・マーズくらい。一過的にアヴリル・ラヴィーンやカーリー・レイ・ジェプセン、最近だとエド・シーランあたりか。ワン・ダイレクションは活動休止しちゃったし、オースティン・マホーンは本人自身が有名になったわけではなくブルゾンちえみが一発屋で終わったらそれまでだろうし。
 ──で、表題である。上述の通りかつて邦楽にも田原俊彦『哀愁でいと』(レイフ・ギャレット『ニューヨークシティナイト』)やwink『愛が止まらない』(カイリー・ミノーグ『愛が止まらない』)、郷ひろみ『哀愁のカサブランカ』(バーティ・ビギンズ『カサブランカ』)、麻倉未稀『ヒーロー』(ボニー・タイラー『ヒーロー』)など、洋楽の日本語カバーのヒット曲がいくつもあったのだが、最近、洋楽を日本語カバーしてリリースされたJ-POPソングって何かある? もちろん皆無ではなく探せばあるのかもだけど、少なくとも有名どころには見当たらないよね? オリジナル志向なバンド、シンガーソングライター系はともかく、アイドル系やシンガー専門のアーティストでも、洋楽のカバーってないよね? おかげでますます洋楽に疎くなる一方なんですけど…。
 さまざまな分野でグローバル化が叫ばれて推進されてる昨今、J-POP界に関しては僕の若い頃に比べてむしろ逆行してるように思えるのは、気のせい?

 









 『プラシーボ』という言葉は、一般にはあまり馴染みはないかもしれない。医学の世界には『プラシーボ効果』と呼ばれる治療効果が認識されている。薬効成分を含まない、例えばブドウ糖とか重曹とかマンナンの粉末なんかを「これ、よく効く薬だよ」と偽って服用させたら、患者の病状が良好に向かってしまうような治療効果のことを言う。 プラシーボ(Placebo)という言葉はラテン語で「喜ばせる」といったような意味があり、そこから転じて「患者を喜ばせることを目的とした薬理作用のない薬」つまり『ニセ薬』のことをそう呼んでいる──
 『病は気から』などというと理系クラスタの人たちからは「非科学的だ!」という声がすかさず飛んできそうだが、こちらにも書いたように精神論が何でもかんでも非科学的とばかりは言えないことは、少なくとも医学の分野では間違いないと思われる。だからこそ前述の諺なんかも生まれるわけだし、精神科や心療内科などでは科学的アプローチよりも精神的アプローチによる治療がなされることも少なくない。なので『プラシーボ』=『ニセ薬』で患者の病状を緩和させるという方法も、病気の種類や症状によってはアリ…、ではある。
 もちろん、そういう方法が効果がある場合、患者のその症状そのものが初めから心因性である可能性が高いし、自分は病気にかかっているという自己暗示から自覚症状をおぼえている場合が大半だろうから、言わば“暗示には暗示で”的なその方法が通用するのであって、それこそ外科手術が必要だったり細菌感染で化膿したりした外傷にはもちろん通用はしない。要は、悩みを持ってる人がその悩みを誰かに打ち明けて心の中をぶちまけたらスッキリした、みたいなものと考えていいだろう。しかしそれでも放置して胃を刺激したり脳が疲れたりして本当に外科手術が必要なレベルの症状に発展する可能性もあることを考えれば、プラシーボによってそれを食い止める、というのは医師の手法としても十分認めてよいだろう。
 とは言え、プラシーボというのは“ニセ”ではあるけど一応“薬”である。言うまでもなく薬には治療薬もあれば毒薬もあるし、処方を間違えれば副作用による逆効果もあり得る。プラシーボによる回復効果と同じくらい、プラシーボによるマイナス効果、つまり余計な暗示でますます症状を悪化させてしまう可能性も、それを誘発してしまう使い方も当然あり得るわけだ──
 なので母上殿、僕がちょっと鼻を詰まらせたり寒そうにしてたりするたびにすぐ「風邪じゃないか」と疑って体温計を差し出したり上に1枚羽織るものを用意したり、入浴をやめるのを促したりしないでいただけませんでしょうか…w それって思いっきり“逆プラシーボ”ですからww 実際にそれをやられて急に熱っぽさを意識したり鼻が余計に気になったりってこと、よくあります。それでホントに風邪になってしまうと、今度はホントにプラシーボでは効かなくなっちゃうんでw

 









 大学1年生の時、演習の授業の時のこと。社会学専攻だった僕たちのクラスで、何人かのグループで順番に研究発表を担当していたのだが、その時の授業で担当していたグループの発表テーマは、若者文化だったか社会風俗だったか、ハッキリとは覚えていないが、彼らの発表の中で表題の『世間ずれ』というキーワードが出てきた。社会の中での若者の気質についての考察だったように思う(ごめんね、記憶があいまいで。あまり勤勉な学生じゃなかったもんでw でも僕はこの授業は優だったよww)が…。発表後の質疑応答で、ある女子学生が手を上げてした質問──「世間ずれって、世間からずれてるって意味ですか?」
 『世間ずれ』感じで書くと『世間擦れ』。言うまでもなく「世間を渡ってずる賢くなっている」つまり「世間知に長けている」という意味であって、その女子学生(ちなみにこの時の子)の言ってた意味は全然違っている。通常『靴ずれ』にしても『床ずれ』にしても『○○ずれ』という言葉の場合、たいていは○○擦れ』であって、その○○に触れまくって起こる現象を指すよね。というか、その言葉を仮に知らなかったとしてもその時の発表テーマ及び話の流れから考えても、彼女の言うような誤解のしようはなかったと思うのだが──
 もちろんこの彼女のこの時の発言は、同じクラスの友人たちの間でしばらくの間語り草になっていた。折しも世間は『オールナイトフジ』が火をつけた女子大生ブーム真っ最中。『世間ずれ』wした僕は、今もこの時代のいわゆる莫迦女子大生の象徴として彼女のことを記憶している──わりと顔は可愛かったし性格もまあまあ良かったけど『世間ずれ』してたのは間違いないようだw
 という、僕的には笑い話のエピソードなのであるが──何年か前の文化庁の調査でこの『世間ずれ』という言葉の意味を10代の85%、20代の80%が誤った意味(あの女子学生の解釈と同じ意味)で理解している。回答者全体では55%、過半数にも及ぶという結果を知り、笑い事ではなくなってしまった。さらには30代から50代にかけて(僕や当時のクラスメートと同世代)も誤った意味で理解している人のほうが多くなっているというのである。あの時点でも、あの時の彼女は『世間ずれ』でも何でもなく普通だったと言うのか!? それをこの年齢に至るまで知らなかった僕の方がむしろ『世間ずれ』だったというのか!? 頼む、ウソだと言ってくれ…!
 ──あの当時、僕と同じようにその彼女のことを嗤っていた当時のクラスメートたちは、この調査結果に果たしてどんな声を上げるのだろうか? 学生の当時よりも僕も彼らも『世間ずれ』してるから、まあそんなこと別にどうでもいいや…、なんて考えるのはこれ果たして『世間ずれ』? それとも『世間ずれ』?
 ──という具合に両方の意味をまぜごぜにしてどっちかわからないよう混同させて煙に巻いて話を締める、というこのやり方も十分『世間ずれ』だな。さて、それぞれの『世間ずれ』、どれがどっちの意味でしょうw

 









 浅田真央という名前を出して、彼女がどういう人かは今さら説明するまでもないと思う。はい、みなさんよぉく御存知の通り、日本を代表する世界的な女子フィギュアスケーターですよね──その浅田真央さんが先日引退を表明し、その引退記者会見が開かれた。その模様は各メディアがこぞってトップニュースで取り上げてたので観た人も多いと思われる。
 彼女の輝かしい功績についてはもちろん異論は全くないし、引退の報に少なからず驚きをおぼえたのも事実。なので今回ワイドショーその他でかなりの時間を割いて彼女の引退会見の内容を報じたり、テレビで特番がいくつも組まれたりしてたことも理解はできる。とは言え少々そればっかりしつこく取り上げ過ぎではないか? という気もしたのは否めないが──
 で、そんな、過剰ではないかと思えるほど各メディアがこぞって真央ちゃん真央ちゃん言ってる同じ頃、シリアの化学兵器使用に対する制裁としてアメリカがシリアを空爆したり、北朝鮮への武力行使を示唆したり、北朝鮮側もそれに対して強硬姿勢を露わにして威嚇してきたりしており、日本への危害も懸念される状況になってきたわけだが──誰かそんなこと言いだすやつが出てこなければいいが、なんて思ってたのだが…、やはりネット上ではそう言いだすやつが何人も出てきた──北朝鮮のミサイル発射準備をマスゴミは浅田真央のニュースで隠蔽しようとしているに違いない! とw
 こちらにも書いた通り、やはりニュースにも優先順位というものはあって、スポーツ関係のニュースよりは世界情勢それも日本への武力危害も懸念されるニュースの方が報道においては優先されるべきなのは間違いない。たとえ浅田真央が世界的な活躍をしており、その引退が日本以外のさまざまな国でも関心を集めているとしても、複数の国の間で武力攻撃が行われ、世界にそれが波及しかねない問題を差し置いて優先的に報道するほどではないと思う。その意味でマスコミの報道姿勢には僕自身首を傾げてはいる──
 しかし、それでも国家の一大事の隠蔽を意図してだなんてそこまではさすがに思わない。じゃあナニかい? 浅田真央ちゃんは国民の目を欺く国家の陰謀に加担するために今のこの時期に引退表明したとでも言うんかい? 彼女は陰謀の手先だとでも? 彼女の会見でのあの表情とか発言とか見てて、そんな風に勘繰れるのかい? 政府やマスコミがそんなこと意図したとしても真央ちゃんがそれに乗っからなければ記者会見は成立しないし、そんな意図に全く気付かないでホイホイと政府やマスコミに乗せられて利用されてしまうほど真央ちゃんは莫迦でもないと思うが──こういう、真央ちゃんの引退会見までも、それにかこつけて安倍政権やマスコミの批判に持っていこうとするやつの方こそ、真央ちゃんをいいように利用してるのではないのか?
 大体、浅田真央の引退のニュースだけでそう何日も話題を引っ張れるものでもないし、アメリカと北朝鮮及びその関連地域の緊迫状態はそう何日で収まるものではない。実際に報道の中心は2、3日後には完全に北朝鮮のニュースに移ってるわけで、そこでは政府の見解及び対応についても報じられている(決して全部ではないだろうけど)。政府もマスコミも、真央チャンがらみで荒唐無稽な言いがかりをつけてる輩よりはよっぽどマトモであると言えよう…。
 ──とはいえ、上述のようにそれとは全く別次元の話で、真央ちゃん報道は過剰だったんじゃないかと僕は何の勘繰りもなく普通に感じてるんですけどね。おかしな連中にうざ絡みされないためにも、少しは報道する側も考えてみても、いいんじゃない?

 









 毎年、春になるとあいつはきっちりやってくる。くしゃみ、鼻水、目の痒み…。そう、スギ花粉である。3月にピークを迎え、4月くらいからヒノキ花粉と入れ替わるのだが、こちらも同様の症状で我々を苦しめてくれる──はい、僕は花粉症デビューが15年前、年齢的には遅い方であるが、発症後の年季は入っている。
 で、なぜ花粉症の話を『メディラビ』ではなく防犯防災テーマの『ヒヤリハ』カテゴリで取り上げるのか──まず、花粉症って昔こんなに騒がれてました? てか花粉症持ちの人自体そんなにたくさんいましたか? なぜこんなに患者が増えたのでしょうか? …てところから考えてみましょう。
 戦後のある時期、日本各地で盛んにスギやヒノキなどの針葉樹の植林が行われた時期があった。家具や建物を作る材木の原料として既存の広葉樹よりも適しており、戦後の廃墟から立ち直り高度経済成長を目指してそれら木材の需要も高まっていたからである──しかし、海外からもっと安価で加工もしやすい木材が数多く輸入されてきて、そちらの需要が高まるにつれて、スギやヒノキの需要が当初の目論見ほどには伸びなくなり、あの当時盛んに植林した苗木たちが成木になる頃には需要はすっかり逆転していた。と同時に植林された山の所有者たちも高齢化して体力的にも衰えて行くにつれて、山の手入れも疎かになって行く。同時に林業も衰退して、後継者も育たず、スギもヒノキも伸び放題──伐採されないまま残ったスギやヒノキの大木たちはさらに繁殖して次世代の子孫も出始める。スギもヒノキも風媒花であり、雄花から出る花粉は風によって遠く舞っていく。そう、山から遠く離れた都会にも…。
 高度経済成長は同時に工業の発展とモータリゼーションの発達も促進し、工場の煙突からモクモク立ちのぼる煙と自動車の排気ガスにより大気汚染が問題になり始めたのもこの頃である。都会に住む人たちは汚染された空気とスギやヒノキの花粉を同時に吸うことになる。両者が結合して反応して、突然変異的にアレルゲンとなったという説も実際にあるわけだ。スギもヒノキも普通の植物であるし、花粉を飛ばすのもそれら植物の普通の習性ではあるが、上記の成り立ちを考えると、それらは決して純粋な自然現象とは言えないだろう。明らかに人為的に作られた現象であり、その結果として現在の花粉症の蔓延があるのだ──
 と、そう考えたら花粉症ってある意味公害病、人災と言えないだろうか? そしてその発端となった大量の植林は、公の主導によって行われたものである。だとしたら、花粉症対策にも国として取り組んでくれよ、なんて言いたくもなってくるではないか。高齢化と後継者不足で山の手入れが困難ならそれこそ自衛隊を使ってでもスギやヒノキを何とかしないと、現状大丈夫でも、いつ突然変異で花粉症が致死性を持つように変わらないとも言い切れないぞ。そうなる前に、国として何か対策を考えませんか──?

 









 先日終わった春場所は場所の初日から千秋楽までとにかく稀勢の里一色みたいな場所になりましたね。久々の日本人新横綱だから、そりゃ注目を一身に集まるのは当然ではあるけど、初日からそれまでの大関時代が嘘のような(笑)危なげない相撲で連勝を重ね、さらに弟弟子の関脇高安も10日目まで共に連勝ということで兄弟弟子での優勝争いという話題も作ったりして、新横綱初優勝の期待がさらに高まった13日目の日馬富士戦で土がついた時に肩を怪我して一転休場の危機、ところが本人の意志で強行出場するも14日目の鶴竜戦では全く力を出せずにいいところなく完敗、今場所かなり久しぶりに絶好調な照ノ富士に優勝争いのトップを譲ってしまい、千秋楽はその照ノ富士との直接対決で、勝っても同点で優勝決定戦、負ければ即照ノ富士の優勝という状況で、しかも稀勢の里は手負いで土俵入りの時に両手を広げるのもつらそうな状態──この状態で、本割と決定戦どちらも稀勢の里が勝って逆転優勝するだなんて、誰か思いましたか?。
 けど、もう結果は皆さんご存知の通り稀勢の里が本割で照ノ富士を破ってまず同点、13勝2敗同士での優勝決定戦に持ち込み、そこでも稀勢の里が勝って、稀勢の里が新横綱優勝、自身先場所の初優勝に続き2年連続2回目の優勝を遂げたのでした──本人も「気持ちだけで取った」とコメントしてたが、実際に表彰式で賜杯を抱える際にも苦痛で顔を歪めてたくらい肩の調子は最悪だったはずだから、まさに「何かに憑かれた」としか言いようがないだろう。彼に憑いたその「何か」は、もっと早く大関時代になぜ憑かなかったのだろう?
 一方の照ノ富士は、相手が横綱とは言え手負いの稀勢の里に連敗してせっかくの優勝のチャンスを不意にしてしまった。前日の琴奨菊戦での立ち会いいきなりの変化で会場から大ブーイングを食らった直後なだけに、余計に印象を落としてしまったのは否めない。先場所までの不成績で何度目かのカド番から久々の好成績で一瞬でも優勝争いのトップに立ったことを考えると、稀勢の里との印象の格差はいささか酷な気もする──照ノ富士だってヒザに故障を抱えてて(それがここ数場所の不成績の原因)、そんな状態でここまで好成績を上げたことを考えると「そりゃねえぜ…」てなものではなかろうか?
 ──しかし、ヒザをやっちゃうまでの照ノ富士がすぐにでも横綱に登りつめてしまいそうな勢いだったこと、故障以降の成績の落差を考えると、今回強行出場した稀勢の里の来場所以降に一抹の懸念を禁じ得ないのも事実。場所後の春巡業にも参加することを表明しているが、大丈夫なのだろうか? 新横綱として初めての巡業であるし、興行上も相撲協会の看板としての責任意識が本人にもあるがゆえなのだろうけど、横綱としての今後を考えると…、である。
 稀勢の里の前師匠だった隆の里も糖尿を抱えて幕内で足踏みして苦労の末に晩年一気に横綱に昇進、新横綱の場所で全勝優勝に輝いた人なのだが、その後すぐに怪我で失速して横綱としては短命に終わっている。稀勢の里も来場所中に31歳で、今後活躍できる年数は決して長くはない(隆の里も新横綱の場所直後に31歳になっている。その点でも両者が被ってしまうのである)と思われるだけに、その前師匠の二の舞にならなければよいが…、なんて思ってしまうのは取り越し苦労だろうか? 肩の怪我の詳しい状態がよくわからないだけに、現状では何とも言えないけれど──
 肩の状態が来場所以降どうなのか、そして今場所そろいもそろって不調だった他の3横綱が来場所以降どうなのか、それによって稀勢の里が来場所以降どちらに転ぶか…、である。もちろん稀勢の里本人としては気力でも何でも振り絞って真剣勝負に挑むだけ、なのであろうが──

 









 こちらの記事で彼らの曲を取り上げた時、本文を読んでいただければわかる通り、僕は正直彼らをキワモノ視していた。ちょっと聴き面白いけどさほど歌詞に深みはなく他愛無いし、長続きはしないだろうなと。実際かれらのその曲は一瞬チャートをにぎわしたと思ったら早々と下降していき、それ以降の曲も時々ラジオで耳にしてはいたが、特に印象には残らなかった──元々「変な歌詞だな」というので一瞬興味を感じたにすぎず、それ以降の特に奇をてらわない正攻法な恋愛詞では、曲調がアップテンポで一気に流す感じのものなだけにまるっきり引っかかってこなかったわけである、僕的に…。ただ、ラジオとかではわりと頻繁に曲が流れていたので「まだ解散せずに続いてるんだ…」みたいな感じだったのだが──
 その彼らが昨年、アニメ映画の主題歌で一気に再ブレイクして紅白に出るまでになった。主題歌だけでなくアニメ全体に彼らの書きおろし曲がいくつも劇中で使われ、それらも含めて配信チャートには彼らの曲で何曲も占められてる状況は、件のアニメ映画がロングラン上映で人気を保ってることもあり、今年に入って現在に至ってもまだ続いている。
 はい、言わずと知れたRADWIMPSのことです。『君の名は。』を未だに観てない僕だけど、♪キミを前前前世から僕は~(『前前前世』) のメロディがしばしば脳内でヘビロテ止まらなくなるし、他の作中挿入歌、♪もう少しだけでいい~ あと少しだけでいい~(『なんでもないや』) のようなスローナンバーも同様である。映画を観た方なら曲の使われた場面を思い浮かべながら聴くんだろうけど、観てない僕が映画の先入観抜きで曲だけ聴いても耳に残るし、歌詞も印象深く感じられる──上述のように長らくキワモノだと僕が思い込んでた彼らは、全くもって正統派なバンドになってた…、いや元々そういう全うなバンドだったのを僕が単に勘違いしてただけなのかも知れないけれど。
 ──以前の記事で書いた『マニフェスト』『携帯電話』は彼らのメジャー10枚目くらいのシングルだそうで、それよりも何年も前から彼らは現在とほぼ同様の楽曲スタイルだったのだろうけど…、やはりそのアーティストを初めて知るきっかけになった曲というのは、そのアーティストのイメージを大きく左右してしまうもんだな。そして今回『君の名は。』のヒットがなかったら、おそらく僕は未だにRADWIMPSに対して上述の誤った印象を抱いたまま聴かず嫌いしてたかも知れないと思うと怖いよな…、まさに『君の名は。』様々である──
 それでも劇場に足を運んで『君の名は。』を観に行こうとまでは思わないけどw DVDか地上波放映の暁には是非とも観てみよう。映画の各シーンで効果的に流れてる(音楽も彼らが総合担当なのでさぞかしストーリーを吟味して効果的な演出を考慮して曲を作ってるに違いない)映像込みでそれらの楽曲を味わうとまた違う味わい方もできるはずであろうから…。

 









 『いいね!』ボタンの元祖はFacebookだろうか…。読んで気に入った記事に、気に入ったという意思表示のために設けられたボタンであるが、Facebookは基本的に実名で付き合うリアル友人相手のSNSツールであり『いいね!』を付けてくれる相手も基本的にはお仲間だから『いいね!』もご挨拶の一環として、あまり「何がどういいの?」などと深く考えたりはしない。いわゆる一般的なお愛想である。
 その『いいね!』ボタンがツイッターにも登場した。厳密には新設されたのではなく既存の『お気に入り登録』いわゆる『ふぁぼ』と呼ばれてたものの名称が変わったにすぎず、実際の意味合いも『お気に入り登録』実際に気に入ったツイートを、タイムラインから流れて消えてしまう前にブックマークしていつでも読めるようにしておくという既存の意味合いが変わったわけではない。それを以前からの流れでこちらもわかっているから、これもやはり「え? 何がよかったの?」とは別にならない。
 しかし、ブログ(ハッキリ言っちゃえばアメブロなのだが)における『いいね!』はどうだろうか。ブログはSNSのような会員制でお仲間同士で集まる空間とは違い、広く開かれた場所である。当然交流も面識も何もない人でも誰でも読めることが前提である。そこに見知らぬ人から『いいね!』がつけば「ありがとう」という気持ちはなくはないけど、それよりも「この人は僕のこの記事を読んで、どこがどう『いいね!』と思ったんだろう」という疑問を抱いてしまうのは、僕だけだろうか…? コメント欄を開いているのにそこには何もコメントがつかないまま『いいね!』ばかりがいくつもつく、という状況が書く記事書く記事連続すれば、そんなふうにも思ってしまう──でもって実のところそれら『いいね!』の主が書いてるブログの大半がネットビジネスだったりコンサルタントだったり健康グッズやアクセサリーのPRだったり、要するに宣伝目的なのである。実のところその記事のこと『いいね!』だなんて別に思ってないだろう、てかそれ以前にそもそも記事を読んでもいない、いや、自動ツールを使って無作為に『いいね!』をつけてるだけで、ことによるとその記事というかそのブログの存在自体知らないのではないか? とさえ思えてくる──
 そんな『いいね!』をもらって、何か嬉しいですか?
 僕の場合、さまざまなテーマに沿っていろんな視点でさまざまな私見を記事に書いて読み手に問う、と言うスタイルでブログを書いている。なので読み手にも忌憚ない声を寄せていただき、互いに意見交換をしながら考えを深め合っていこう、という趣旨でコメント欄を開いている(そのことはブログのトップでもハッキリと謳っている)。なので無言『いいね!』では意見交換にならないし考えも深まらない、話題も広がらないのでブログ運営の趣旨にもかなわないし、当然嬉しくなどない──のだが、それって僕だけ? 他のブロガーの皆さんはコメントなしの無言『いいね!』をどのように位置付けてるのでしょうか?

 









 僕くらいの年齢になると、さまざまな生活習慣病が気になってくる。ガンもそうだし脳梗塞もそうだが、普段からの食事、運動、睡眠、ストレスなどさまざまな要因が複合して、年齢を経るにつれて身体を痛めつけてきた結果ついに発症、となるわけで、とにかく日常生活全般を見直さなければならない、若い頃のようにはいかないということを、年齢相応に自覚せねばなるまい。その中でも特に食生活に起因するところが大きいと思われるのが糖尿病、表題の言葉である──
 この記事は、医療・健康テーマの『メディラビ』ではなく言葉そのものの意味を吟味する『日本語』カテゴリーであるから、ここでの本旨はあくまでも『糖尿』という単語についての吟味である──まず糖尿病というのは、血液中に含まれる糖分の割合が正常な基準値を超えて高くなる病気である。通常、食物から摂取された当分は膵臓から分泌されるインシュリンによって分解されるのだが、過食などにより長年過剰摂取された糖分の分解にインシュリンの分泌が追いつけなくなって血中に糖分が必要以上に残ってしまったりインシュリンの分泌機能が衰えてしまったりして高血糖の状態が続いた結果、さまざまな合併症を引き起こす…、と、医療テーマでないといいながらそっちの解説に行数を割いてしまった──
 要は、上述の症状でなぜ病名が『糖尿』なのか、である。尿=おしっこはどこに出てくるんだ? いや、実際に高血糖が進んで症状が悪化してくると、血中の糖分が尿の中に出てくることになるのは確かなのだが、しかしそうなるのはよっぽど症状が悪化した時であり、それこそ生命に関わる状態である。世間で『糖尿病』と呼ばれてる人たちのほとんどは病気を抱えて食事を制限されながらも、それ以外は普通に仕事もし、生活もしている。もちろん糖分が含まれたおしっこを出してる人は、いわゆる糖尿病患者の半数にも満たないのではなかろうか。
 ──これには、そのいわゆる『糖尿病』が生命に関わるほどの重篤な症状ではなく、何ら日常生活に差し支えない単なる高血糖のレベルであっても、それが原因により動脈硬化や腎不全、四肢の壊疽や網膜症などさまざまな合併症を引き起こす、実際にそちらの合併症の方で生命を落とす人の方が圧倒的に多いということで、それら軽い高血糖まで含めて『糖尿病』と呼ばれることになったのだろう。そしてその『糖尿病』の診断される血糖値の基準は一昔前よりも下がっており、診断名『糖尿病』の患者のおしっこの糖分含有率はさらに下がってると思われる。もはや『糖尿病』という名前も実態にそぐわないように思われるのだが──かといって単に『高血糖症』なんて言い方では軽く思われて患者の意識改革につながらなそうだけど…。
 ただの言葉の問題、などと言うなかれ。生命に関わる病気の名称であるから、たかが病名、されど病名である。素人の患者が正確な病気の意識を持つには名称も正確でありたい、そう思いません?