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ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 2015年3月に淡路島起こった男女5人殺害事件の2審で、先月大阪高裁は求刑通り死刑とした1審判決を破棄し、無期懲役とした。薬剤性精神病と鑑定された被告の刑事責任能力の有無が1審2審のいずれも争点とされていたのだが、その点での判断が食い違ったカタチである──1審は裁判員裁判で、民間から選出されて自分たちの仕事や生活に必要な時間を割いて長期間にわたり評議に時間を費やした裁判員たちの結論が、プロの裁判官によって真逆の判断によって覆されたわけだ。裁判員裁判での判決が控訴審で破棄されたのは今回が初めてではなく、過去何例もあるという──
 上述の通り裁判の争点は被告の刑事責任能力の有無であり、被告の犯行であることや犯行の経緯、そして犯した行為そのものが死刑に相当することについては2審の裁判官も認めており「死刑を選択した上、刑を軽減する」としている。しかし経過はどうあれ死刑を回避するという結論になったことに変わりはなく、被害者遺族の「到底納得できない」というコメントも宜なるかなである。
 僕自身、2審でのこの逆転判決には大いに違和感あり、である。それは絶対的な罪の軽重が十分死刑に値するものであることもそうだし、精神病による刑事責任能力をあまり重視しすぎるのはどうかという疑問もそうだし、どちらが重視されるべきかと言われれば被害者遺族の無念さの方だろうという思いもそうだし、もともと死刑制度には肯定的なのもそうなのだけど…、違和感の最大の原因は、やはり裁判員裁判での判断がこうもあっさり覆ってしまうことであろう──
 以前の記事でも何度か書いてることだが、僕は実際に導入されるよりも前、検討されてると報道されてる頃から、裁判員裁判制度には反対だった。法律のシロウトでついつい感情で考えかねない一般人を本人の希望の有無に関わらず否応なしに召集して生活を犠牲にさせ、殺人犯とはいえひとりの人間の生死に関わる(裁判員裁判で審理されるのは大半が死刑相当の事案である)処遇を決めるという辛い判断を強いた上に、守秘義務が課されてるがゆえにその辛さを誰にも打ち明けられない苦悩の日々を長期にわたって送らねばならない。いくらか報酬が出るにせよ、到底割が合うとは思えない行為を国が義務として強いるというのはあんまりではないか? と導入前から思っていたのだが──しかし制度は始まってしまった。上述の辛苦はあれど、裁判員のみなさんはそれなりに任務に誠実に取り組んで話し合いを重ねながらも総意として適正と思われる量刑を決めたのではないのか?
 それがこうもたやすく却下されてしまうのでは、あの辛い日々は何だったのだろうかって…、なりません? シロウトの裁判員では法的に正しい判断は難しいなんてのは最初からわかり切ってたことで、この期に及んでそれを言い訳に裁判員の判断をないがしろにしていいなんて理屈は通りませんぜ。だったらハナっから導入すんなよ、ってやつでしょう。
 決して裁判員の肩を一方的に持つつもりはない。今回に関しては僕は1審支持だが、過去裁判員裁判の結果が2審で覆った例で2審の判断の方が妥当だと僕的に思った例もあるし、逆に裁判員の判断が2審で支持された場合でも「いや、おかしいだろ」と感じる例もある。法律のプロの判断に法理論で及ばないのは致し方ないことだし、繰り返すがそんなのは最初からわかり切ってたことである。そして多くの事例で実際その通りになってる、少なくとも本職の裁判官がそう判断しているわけでしょ──今からでも遅くはない。裁判員裁判制度、廃止しませんか? 『過ちを改むるに憚ることなかれ』法律の世界ならなおのことですよ。
 









 オーストラリアの大規模な森林火災は日本列島の半分を超える面積の森林を焼失させ、森林だけでなくコアラをはじめとするたくさんの野生動物が焼け死に、最終的な被害はどれほどのものになってしまうのか、想像もつかないありさまである。原因として周辺の海域の気圧配置の状況による天候不順でオーストラリア全体で空気が乾燥していたことで、火の勢いがなかなかおさまらずに被害を拡大させてしまったようである。その間、なかなか雨が降らずに自然消火もままならず、森林はどんどん焼き尽くされていく。その後、ようやく待望のまとまった雨が降った頃には森林が完全に焼失した後であり、恵みの雨のはずが森林によって土砂崩れを防ぐことができずに土石流となり、被災地では新たに水害の危機にさらさせてしまうという悪循環。そしてその間にも別のエリアでは依然として森林消失が進んでいるという──
 犠牲になった野生動物の象徴のように映像メディアで代表的に取り上げられているコアラの主食であるユーカリは油を含んでおり、まさに火に油を注ぐ状態になっているという。主食のユーカリが焼失してしまえばコアラは飢えてしまうし、コアラはもともとユーカリに含まれる水分のみで必要な水分を補給している動物なので、脱水症状にもつながるという。焼け死んだり火傷を負ったコアラはもちろんだが、無傷で生き残ったとしても、その後餓死してしまうコアラが続出するのは免れまい。同じことが他の野生動物にものちろん起きているわけだ──あのオーストラリアから豊かな自然の大半が失われてしまったら、これは地球的には致命的な損失になってしまうのではないだろうか…。
 ──などと書きながら、僕自身切実な危機感をさほど感じていないのは否めないし、メディアの報道なども優先順位2番手3番手で、数あるニュースのワンオブゼム的な扱いである。身の周りの知人との雑談でこの話題が出ることもないし、日本の多くの人にとっては『対岸の火事』でしかないのだろうか…?
 しかし、これは地球規模の災害である。それは異常気象=気候変動に起因している。そしてその災害に見舞われているのは世界的にも特に自然が豊かで野生動物の宝庫と言える大陸である。この大火災、日本での日常生活に何も影響ないだなどと思えるだろうか? 森林が減ればその分酸素の供給量は減るし、逆に二酸化炭素は膨大に増える。地球はますます温暖化して、異常気象の頻度も大きく上がる。地球規模だから当然日本だけの話ではなく、世界中どこへ行こうと逃げ場などない──なんて心配、起こりません? この大火災って、ホントに対岸の火事なのでしょうか?
 そして、地球規模で気候変動が起きてるということは、日本で同様の大規模な森林火災が起きる可能性も大いに考えられるということである。故郷のあの山脈がツルッパゲになり、あの動物もあの鳥も、なあんにもいなくなってしまう、なんてことになる前に、危機感持って食い止めるすべをみんなで考えませんか?
 









 昨年のレコ大、まさか『パプリカ』が取るとは思わなかった。いや、昨年どの世代にも最も浸透した歌であるのは間違いないだろうけど、何しろ歌ってるFoorinがオーディションで集められた小中学生のユニットであることや楽曲が『〈NHK〉2020応援ソングプロジェクト』用に作られた企画モノであることで、音楽シーンの本流と言えるのか? という印象で見ていたので──とはいえ業界のパワーバランスでまた坂道系グループに決まってしまうよりは納得はできる結果であるし、総体的には肯定的にとらえてはいる。
 で、その『パプリカ』だが、楽曲を作った米津玄師のセルフカバーもリリースされている。こちらはやはりNHKの『みんなのうた』で採用され披露されたのだが、Foorinの楽しく子供が踊れるアレンジとは違い、どことなくノスタルジックなもの悲しさを帯びた曲調になっており、ある意味好対照と言える。まだ無邪気な子供時代の華やいだ楽しい気持ちを、大人になってから思い返してみるとこんな心情になるのかな、みたいな。僕的にはどちらのバージョンも違った味わいで好きであるのだが…。
 ところがネットのレビューなんかを見てみると「米津玄師バージョンの方がいい」という声がかなり多くて、正直「おまえら何にもわかってないだろ」なんて思えてしまう──こちらの記事に詳しいが、まず同じ歌詞をリアルタイムの子供の視点と、その子供時代を振り返った大人の視点で歌ってるわけで、一方があってこそのもう一方である。Foorinの楽しそうなバージョンを知った上で米津バージョンに触れることで、決して楽しいばかりの楽曲世界ではないことに気づいてグッときた、という意味での「米津バージョンがいい」はアリかもだが、それにしたって先にFoorinバージョンがあってのことだし、米津バージョンを知った上で改めて屈託のないFoorinバージョンに触れればまた新たな感慨が生まれそうなものなのだが…。
 『パプリカ』だけでなく大物アーティストが他者に提供した楽曲のセルフカバーがリリースされると必ず両者を単純に比較する声が出て、その多くがセルフカバーの方を持ち上げる、さらにその多くは他者(の多くはポッと出の若手だったりアイドルだったりする)バージョンのサゲにつなげている──しかし、それって彼らのために楽曲を提供した作者の方に対しても失礼極まりないことですから。楽曲を提供するということは、提供先のシンガーへの思いもその楽曲には込められてるわけで、そのシンガーの歌唱も含めて、提供したアーティストの表現世界であるということに、ファンならば思いを致した方がいいと思うよ。
 『パプリカ』に関して言えば、米津玄師は作詞作曲だけでなくプロデュースも担当しており、Foorinのユニット名の米津の命名である。つまりFoorin自体も含めて米津の作品と言えよう。その上でセルフカバーで楽曲の『陽』と『陰』を対比表現させているのだ。その両者に優劣などあるわけはない──
 








 表題の言葉は、大学生の頃に同じクラスの同期の男が何度か言ってた言葉。「俺はある人物に対して悪感情を持ったとしても決してすぐに縁を切ったりせず、何かその人物の良いところを見ようと努力するんだ。だから俺に嫌われたらホントに最後だからな」と。その前々年くらいまでいつも一緒につるんでたけどその性格の歪みっぷりにウンザリして僕とそいつのどちらも愛想を尽かして疎遠になった、やはり同じクラスの人物の話題になった(彼を切り捨てた後もしばしばふたりで彼をサカナに酒飲んでは盛り上がっていた)時に、それに関連してそいつがよく口にしてた言葉である。
 その時口には出さなかったけど僕が心の中でそいつに言いたかったセリフ「おまえが愛想尽かしてもまだ俺が残ってるよ」──そいつが彼を切り捨てた後僕もそうなるまでの間に何ヶ月かのタイムラグがあったことをそいつもわかってたはずなのに、僕的には正直「おまえが俺にそれ言う?」って感じだったわけだが…
 実際、僕は自分から友人知人の縁をなかなか切らないってことでなら、そいつだけでなく誰にも負けない。そいつの言う「何とかその人物の良いところを見つけようとする」という点では僕も同じであるが、その結果「良いところを見つけられない」となった後に、僕の場合はそこでアウトではなくさらにその先に「僕の方にも至らない点はあるわけで、迷惑かけた場面はあるはず、そこはお互い様ではなかろうか」というステップがあるのだ。実際、友人関係なんてある意味互いにそれなりに迷惑をかけ合いながらも許し合いながら保たれていく関係だし、自分の悪感情だけで、相手の我慢をフイにしていいのだろうかという、ある種の罪悪感を僕は覚えてしまうのである──この第2段階があるかないか、この差って実はかなり大きいと思うよ。
 「良いところを見つけ出してやる」だけでは、何か「人物査定してやる」みたいな上から目線を感じてしまう。その先に「自分に至らない点がないと言えるか?」という内省がないまま「はい絶交!」ってやっちゃうのって、自分本位すぎではないのかね? なんてことをあの時のそいつには思ってしまったわけなのである──そう言いつつ僕も最終的に自ら誰かと縁を切ったことはないわけではない。それはそういう理屈も何も抜きで「もうイヤ、我慢できない!」という気持ちがまさってしまったわけなのだが…、でもそこに一抹の罪悪感は禁じ得なかった。そしてそんな僕にすらついに愛想を尽かされた彼らも、それ以後も相応に人間関係を築いており、間違っても"ホントに終わり"になどなってはいない。単に運と相性の問題ということに尽きるのであろう。
 ちなみにそいつと僕も大学4年の春、僕の就職活動が本格化するのと前後してどちらからそう宣言したわけでもなく急激に疎遠になってしまったわけだが…、カタチの上では上述"第2段階"がない彼の方から訣別、ってことになるのだろうか。僕が感じる一抹の罪悪感を覚えることもなく──でも残念ながら、僕はその後そこそこ名の知れた会社で内定もらい、就職後も社内でも社外でもそれ相応の人間関係もできたし、また学生時代からのあのグループやこの縁も続いており、決して"ホントに終わり"になってはいない。そいつの頭の中ではあるいは"ホントに終わり"になっちゃってるのかも知れないけどw
 









 今回この駅を取り上げるにあたってネットで情報を当たってみて、駅舎のリニューアル計画が進んでることを初めて知る。既にデザインは決まっていて近々に工事に着工するのだという。現時点ではまだ僕の知ってる昔の小さな駅舎のままのようだが、駅の両側に自由に行き来できる橋上駅になるらしい。市の代表駅からは一駅だし、ikoca区間の西端でもあり、現在全く何もない駅裏を宅地開発して発展させ乗客増を見込んでいるのだろうか──僕がこの駅に降り立ったのは昭和時代であり、もちろんここに書いた駅風景は遠からず過去のものになる。
 JR山陽本線南岩国駅。岩国駅から下関方向に一駅であり、広島へは通勤通学圏内である。浪人時代に予備校で一緒だった友人♀の家がそこにあり、大学合格した春に当時の仲間7~8人とともに彼女の自宅に遊びに行った際に、一度だけこの南岩国駅に降り立ったことがある──こちらの記事で「岩国を境にそこから西は30分に1本と、列車の本数がガクンと減る」と書いた。当然広島方面からの下り電車は大半が岩国止まりでそこから先へ一本で乗り通す列車にはなかなかお目にかかれない…、のだが、その時に乗った列車は岩国での乗り換えはなかった。岩国駅に列車が止まるとそこから仲間(この時の彼女)がまたひとり乗り込んできて合流、そのまま発車して一駅先の南岩国駅でみんなで降りる。
 上述の通り、当時の南岩国駅の駅舎はかなり小さく、駅を降りるとすぐに幹線道路に出られる。上述の友人♀の家はそこから少々歩く場所だったが、駅前から道中のロードサイド、これといって建物が目立つ感じはなく、当時まだ上京直前で首都圏近郊の郊外住宅地を含むあちこちの駅前風景に慣れてなかった目から見ても、ハッキリ言って何もない…。でも地方都市の代表駅以外の周辺駅なんてどこも大体そんなものである──それから15年以上も後、上述の下関行きの道中でこの駅を通過した時にもあの頃と変わらぬ沿線風景だったのを見た時にはさすがに首都圏目線で「うわ、こんな田舎だったのか…」なんて感じてしまったけどw
 しかし、そんな地方都市の郊外だけあって、友人♀の自宅はさすがに庭付きで大きく、またわりと新しめで綺麗だった。これは都会の感覚からは羨ましく思う人も多いことだろう。おそらくは値段も都内のヘタな分譲マンションよりも安いはずだぞ──田舎ではそれが普通なんだけどね。
 そんな、立派なご自宅のリビングで総勢10人近くの僕たちは(全員未成年だというのに)メンバーの持参した酒で乾杯、昼間っから宴会で盛り上がり、広い庭でみんなでドッジボールを楽しみ、1浪の末の大学合格の喜びをみんなで存分に分かち合いながら、夕方までの楽しい時間を過ごしたのだった。お母様始め家族の皆様、その節はどうもありがとう──
 夕方、また同じ距離をみんなでテクテク歩いて南岩国駅へ向かう。とにかく結構歩いたなという記憶しかない。仲間との談笑に夢中になってたことを割り引いても、道中の風景の印象があまりないというのは、後年の通過時の車窓からの風景と併せて考えても、それだけめぼしいものがなかったということなのだろう。でも、ヴィジター目線でそう感じたとしても、そこで暮らす仲間との現地での楽しい想い出に代えられるものではない、それだけは確かなのかも知れない──
 で、冒頭に書いた通りその時のあの小さな駅舎は遠からず橋上駅に改築される。それに伴い一面の畑だった駅裏側への行き来がたやすくなることで、駅の両側の光景も大きく変貌するのかもしれない。それはそれで一面寂しくはあるが、街のためにはきっといいことには違いない。
 









 左足のカカトの内側あたりにホクロらしきものを見つけたのは21年前の秋のこと。皮膚がんの一種であるメラノーマの多くが足の裏にできるという知識は当時からもちろんあったので、見つけた時は少々ビビった。色は薄いし大きさも小さい。今まで足の裏のカカトなんでそんなしげしげと眺めたことなんてないから、直近に突然出来たのか、前からあったのか、そんなことは全然わからない。良性か悪性かは素人の僕には見当はつかない。これがもし短期的にカタチや大きさが変わったしすれば間違いなくガンである。早く医者に行って相談しなけりゃ、と思いつつも恐怖心からそれができず、地味に怯えながらホクロの形状の推移を見守ってきたのだった──それから21年。ホクロの形状は全く変化ない。ガンの心配はほぼないであろう…
 メラノーマ(悪性黒色腫)というのはメラニン色素がガン化したものであり"ホクロのガン"と呼ばれることも多い。非常に転移しやすくガンの中ではかなりタチの悪い部類にはいる。眼球の白目の部分や爪の中、足の裏などにできることが多いのだが、足の裏だと日常的に歩行で刺激する部位なので、ガン細胞が刺激されて散らばり、全身に回って転移しやすいわけだ。一見ホクロなので見えていながらあまり気にとめられないことも多く、みすみす進行させてしまうケースも多いと思われる──
 ──っていうような予備知識があったものだから「こりゃヤバいじゃん!」ってビビってしまったわけである。存在に気づいてから21年を経た現在の色も形状も大きさも当時と全く変わってないし血液リンパ系にも異常はないのでまず心配はないと考えていいと思うが、幸いそうだったからよかったものの、これがもし悪性だったとしたら、形状が変化してから受診したのではもう遅い。ビビって受診を躊躇したことを激しく後悔しながらとっくにこの世にいなくなってたことだろう…。もちろんガンというのは細胞の突然変異だから、現状大丈夫でも何の拍子に悪性化するかわからない。カカトのホクロの状態は今後も注視していかなければならない。
 しかし、足の裏のそんなちっちゃいホクロなんて、みんなそんなに気にとめて見たりするだろうか? それ以前に自分の足の裏にホクロがあるかないか自体みんなちゃんと把握してるか? 目玉とか爪とか、発見しやすい場所に見つけても「なんか汚らしいな」程度で別に痛くも痒くも何ともない、気にするとしても美容的な観点で、医学的に生命に関わるかもなんてことまで思いが至らない人、いっぱいいるのでは? で、よせばいいのに自分で針を刺したり焼いたりしてとろうとしてガン細胞を散らばらせてしまったりとか、そうなったらいくら後悔してもし切れないぞ…。
 ──かといって「ここにもホクロ」「あ、ここにも」なんてホクロみつけるたびにビビる必要もないけどね。メラノーマは普通のホクロとは明らかに形状が違うので、気をつけて見るようにしようってことで。
 









 ここ数年の暴力事件発覚の連発で、日本相撲協会は暴力問題に非常にナーバスになっており、発覚後の調査も今までよりかなりスピーディになり、対象者の処分も速やかかつ厳しいものになってきている。転機になったのはもちろん日馬富士の例の一件なのであるが、被害者の貴ノ岩のケガの程度が甚だしかったこともさることながら、当時の師匠である貴乃花が態度を硬化させて問題が拡大して手こずったことも、現在の協会の姿勢に大きく影響してるのは間違いない──
 表題の『羹に懲りて膾を吹く』という諺は、アツアツの汁物で舌を火傷しちゃった人がそれに懲りて膾みたいな常温の食べ物さえも吹いて冷まそうとするくらい過剰に慎重になってしまう様子を指したものであるが、あの一件以後の暴力問題に対する協会の対応に、この諺を思い浮かべてしまうのは、僕だけでしょうか?
 相撲界ではその後も数々の暴行事件が報じられている。その中には上述、きっかけになった一件の被害者である貴ノ岩が加害者として関わったものもあった。その件では貴ノ岩は自ら引退届を出して角界を去っているが、暴行された方の付け人(当時)は厳罰を望まなかったという。貴ノ富士の暴行についても引退の引き金になった2度目の暴行については被害者の付け人(当時)へのそれは単なるゲンコツ程度のものであり、外傷もなかったらしい。そういうこともあって代理人弁護士を立てて抵抗するなど後味悪い辞め際になってしまったが、発覚が2度目ということで厳しさが必要以上に過剰になったという面は、果たしてないだろうか? 関取と付け人の間だけでなく、下の者同士でも兄弟子の弟弟子への暴力が発覚して、峰崎部屋や鳴戸部屋でも若い力士が処分されている。前者は出場停止で後者は引退と差があるところを見ると、決して一律で判断しているのではなく事情聴取の内容である程度の情状は斟酌してはいる(上述の貴ノ富士も1度目は相手にケガを負わせながら出場停止ですんでいるし)ようであるが…。
 しかし、いずれの場合も被害者である付け人にも、指示を忘れたり遅れたりなどの直接付け人としての仕事に関わる落ち度があるのも事実で、凶器になるものを用いたりとかケガをするほどの甚だしい暴力はともかく、ゲンコツ一発で即引退というのもなぁ…、なんて思ってた最近、今度は立呼出し(呼出しの最高位)の拓郎が暴力問題で退職したのだが、その暴力の内容と言うのが「巡業先の会場で、早朝客席の椅子に座って食事をしていた序二段の呼出しに「お客さんの座るところでで食事をするな」と注意してゲンコツ1発。さらに近くにいた幕下呼出しに「兄弟子なんだから、ちゃんと見てやれ」と言いながら背中を1回たたいた。背中をたたいた際は平手だった」という──はぁ? 暴力の内容もその程度か、てのもさることながら、その若い呼出しの落ち度も、それに対する立呼出しの注意の内容も至極真っ当ではないか! こんなことで処分すんなよ、それ以前にそもそも問題にすんなよ…、なんて思えてしまうのだが、協会の処分案はせいぜい2場所の出場停止であり、退職はむしろ拓郎の方の固い意志だったという。昨今の協会を取り巻く風潮の中で、協会に対する"忖度"の気持ちが働いたのだろうかと察せられて、どうにもやるせない話である──てか、被害者の立場である若い呼出したちにとっても、こんな結末は果たして本意なのだろうか?
 一連の件が問題になるよりもずっと前から相撲界には暴力が蔓延しているという外聞は厳然としてあり、それに対する昨今の社会情勢がますます厳しくなってきてるという状況の中、協会がナーバスになるのも宜なるかなではあるが、それも程度問題な気がする。無条件に暴力はダメではなく、事情を鑑みて処分を決め、その処分の経緯について世間を説得して理解を求める、ということも時には必要なのでは?
 









 MDMA所持容疑で逮捕された沢尻エリカは、本当なら先週日曜から始まる大河ドラマに、かなり重要な役で出演してるはずだった。彼女の出演シーンは春頃の分まで撮り終えていたのだが、今回の逮捕をもって彼女は降板、代役を立てて撮り直しを余儀なくされ、その結果件の大河ドラマは今日の時点でまだ始まっていない。明日もまだで、その次の日曜開始である。刑事事件の容疑者をメディアに出演させるわけにはいかないというのが"みなさまのNHK"の判断であり、また世論の意見でもある──
 今回の降板は当然であるが、一部のメディアでは罪を償った後の復帰の有無について言及してるものもあり、絶対反対とか時期尚早とかの声が多く寄せられている。まあ、会社員であれ公務員であれ、刑事事件での刑を終えた後に元の職場に復帰はまずあり得ないし、前科があれば再就職の道も厳しい。それに引きかえ俳優やミュージシャンの多くはほとぼり冷めたらシレッと復帰してる印象は強く、多くの人にとって「芸能界は甘い」というイメージに結びついているわけだが…。
 芸能人の多くはフリーランスではなくプロダクションに所属して仕事を会社から与えられている身分であるから、会社員とは言えなくても契約社員もしくは請負契約の関係と考えれば、普通はプロダクション=会社からは即時解雇されて再雇用はまずないのが普通である。その意味では芸能人は甘やかされてるという一般人の意見はご尤もではあるのだが…。
しかし所属タレントはプロダクションの社員が自社の仕事をもらうために営業かけて売り込む存在で、いわばその芸能プロの"商品"である。スズキにとってのワゴンRとかキリンにとっての午後の紅茶みたいな──とすれば所属タレントの不祥事はさしずめ食品への異物混入か車のリコールってとこだろう。発覚した時点ではもちろん商品は店頭から回収されるし出荷も停止され、場合によっては生産中止もあり得る。しかしブランドそのものを永久に廃止することはなかなかない。一時期自主回収されたあのお菓子やあの化粧品も普通に店頭に見られているし、あの時のイメージでもう買わないという消費者の話もあまり聞かない。
 ブランドの存廃はメーカーが決めること。芸能プロの商品であるタレントも同じである。売れると思えばブランドを存続するし、ムリだと思えば廃止する。そしてそれは売り手の問題だけでなく買い手=テレビ局や映画会社の問題でもある。売買関係が円滑に行かなければ商品は成立しない。また買い手もその商品=タレントは自社商品=番組や映画作品の原料であるから買うにあたってはその先にある自社商品の売上を視野に入れてのこと。そして自社商品の買い手は…、映画の観客やDVDの購入者、一般の我々である。
 わかる? 我々もタレントの消費者なのですよ。不祥事タレントブランドの存廃は最終的には自分たち次第だってこと。甘いのは果たして芸能界だけかどうか。消費者である我々の購買姿勢が不祥事ブランドの存廃を左右してるという、当事者意識をもってみてはいかがでしょうか?
 









 大阪の自宅から突然姿を消して行方不明になっていたという大阪の小6女児が栃木県小山市で見つかったらしい。見つかった場所は犯人の30代の男の自宅で、そこには他にも茨城県で行方不明だった中3女子が一緒に監禁されてたらしい。女児には、靴下だけで歩いた足に水ぶくれができてたものの、他には目立ったケガはなく、無事に自宅に戻り、母親と泣きながら抱き合ったという。まずは女児が無事でよかった──ところで同じ大阪で他にも○△彩×ちゃんって子が行方不明になっててニュースで顔写真出して情報提供をしきりに呼びかけてたけど。あの子も確か小6だったよな。その子の捜索はその後どうなってるんだろう? 
 ↑ これ、ボケではなく素でそう思ってる人、いるかも知れない。行方不明のニュースで報じられた、色とりどりでカラフルな聞こえが印象的な彼女の名前が、無事救出のニュースでは全く聞かれなかったから。続報はともかく第一報の時から。誰でも彼でも熱心に毎日ニュースを追いかけてるわけではない。仕事や生活事情でそれがままならない人は決して少数ではないわけで、救出のニュースとそれ以前の失踪のニュースがひとつに結びかない人は必ずいるし、マスコミ報道がマス=大衆向けの報道である以上「情報について来れない奴は置いていく」的な報道姿勢はいただけまい。プライバシーや人権に配慮とか、コンプライアンス云々の問題ももちろんわかるが、ニュースの性質やこれまでの報道の経緯を考えれば、せめて第一報、できれば第二報くらいまでは実名を出した方がいいのではなかろうか?
 数年前、行方不明から1年か2年後くらいに、これも原付バイクを連想する下の名前が特徴的な秀才国立大学生の部屋で無事保護された中学生少女の時は、確か無事発見の第一報の時は実名が報じられたはず。その後すぐ匿名に切り替わったが…。この少女は僕と同じ県の隣の隣あたりの市に住む子で、近場である僕の住む街でも失踪直後から交番やら至るところに情報提供を呼びかける実名顔写真入りのポスターが貼られていたのだが、その何枚かは無事発見後の撤去が遅れてて、報道が匿名に切り替わって以降も何日か彼女の実名顔写真を駅前掲示板で見かけたものである。忙しくて毎日帰宅が遅くニュースも観れない勤め人が帰路の駅前でこのポスターを見ながら「もうダメかもな…」なんて、とっくに無事見つかった彼女の安否を絶望視して心を痛めてるパターン、あるんじゃないかな? なんて当時思ったりした──
 こちらにも書いたが、誰にも近親者以外のさまざまな人間関係があり、それは就学児童だって同じ。例えば転校して遠くの街に移り住んだ元同級生とか塾や水泳教室が一緒だったとか、その程度の関係でも知ってる名前の子が事件に巻き込まれれば安否を案じるし、その結果によって密かに哀悼したり逆にホッと安堵したりもするわけで。実名で安否が報じられなければ心配ばかり募り、しかし不謹慎な詮索もできないとあっては気持ちの持って行き場がない。助かったのがその子だったとわかるだけでも、決して少なくはないそれらの人たちのもやもやは消えてスッキリすると思うのだが──
 そちらの記事に書いた件にも通じるが、スキャンダラスな扱いで必要以上に不謹慎に実名報道で引っ張るのがよくないのであって、そういう薄い知人の心配を取り除く程度の最低限の実名報道は、あってもいいのではないだろうか? 失踪中の報道ですでに実名は世間に周知されてしまってるわけだから、その状態を放置のままシレッと匿名にするのではなく「無事の確認をもって、今後彼女の実名は伏せて報道します」と区切りをつけるところまでが、報道の受け手に対する責任のように思えるのだが…。もちろんそれには受け手の良識がともなう必要があるし、我々のそれも問われる問題であることは認識せねばならないのだが。
 









 田代まさしの5度目の覚醒剤逮捕に関連して、自らの体験を踏まえて薬物の怖さを訴える講演活動などを通して薬物廃絶を啓蒙していたはずの彼の再々々々犯でありながら、今回断罪や揶揄よりも薬物依存の怖さや克服の難しさを論じる意見が多いことについて、先日来いくつか記事を書いてUPした。一度身体が覚えてしまうと、本人の意志だけではままならない、更生施設による克服のための本人及び施設職員の懸命な努力をもってしても完全な更生が困難であること、なので薬物使用を単純に犯罪として罰だけ科す=罪の意識からやめたい気持ちがありながら意志を超えて身体が求めてしまう、そんな、ヤクの売人にとっての格好のカモを監獄で一定期間強制的に一緒に過ごさせては、薬物使用者の更生には逆効果だろう、と。
 で、暴論承知で薬物使用犯の罪は刑罰としては撤廃、その分は売人側に全部上乗せしろ、現状でも単純使用より営利目的の売人の罪が重くはあるがそれでも足りない。中毒患者の未来の人生を完全に奪った分も上乗せして償わせろ、と書いた。無論使用のヤク中は専門の施設に強制収容して長期的に監視or保護観察しなければとも書き添えた。決して犯罪者甘やかしではなく、実刑になったとしてもせいぜい2~3年のムショ暮らしでシャバに出すよりもほぼ一生も同然の期間監視という、むしろ刑罰よりも厳しい処置を、とも。
 ──そんな記事を書いてUPするまでの間に、今度は沢尻エリカのMDMA所持での逮捕が報じられた。直接の容疑はMDMAだが、大麻やLSD、コカインなどの使用も認めており、それらを10年以上使用していたというから、これはもう中毒患者と言っていいだろう。そうなると2年や3年の懲役でシャバに出してはダメ。完全に薬が抜けるまで10年でも20年でも強制的に治療に専念させなければ(なので芸能界復帰などは、許される許されない抜きにしても到底無理な話である)だ。但し刑法犯としてではなく。その分の刑事罰は入手ルートの売人に上乗せして科すべきだろう。
 以前にもいくつかの記事に書いたが、薬物犯罪は死刑が当たり前という国は世界にいくつもあり、それに比べると日本の刑罰は軽すぎる。そのことがこうした薬物犯罪の蔓延を助長してるのだとしたら、それでも一足飛びに死刑というのはさすがに躊躇するけど、上述のような厳しい対処(刑罰かそれ以外の形態かを問わず)に切り替える必要があるのではないか? 売人側はエリカ様だけでなく他にも何人もにクスリを売り渡してるだろう(あのモデルやこの俳優なども芋づる式に、などと噂されており、一部内偵を進めてる可能性もありだし)から、売人の刑は累犯につぐ累犯でほぼ終身刑同然になってもらわねば。
 とにかく、薬物事犯は売る方も使う方も、カタチはどうあれ償いに一生涯かけてもらう、それくらいでないと、もはやこの連鎖は止められはしないぞ。