私たちが往生するとき、阿弥陀様がお迎えに来て下さるのかをお話ししていきたいと思います。
法然上人の御法語に
われら戒品の舟筏もやぶれたれば、生死の大海をわたるべき縁も候わず。智慧の光もくもりて、生死を照らしがたければ、聖道の得道にも漏れたるわれらがために、ほどこし給う他力と申し候は、第十九の来迎の願にて候えば、文に見えず候とも、かならず来迎はあるべきにて候なり。
【法性寺左京太夫の伯母なりける女房に遣はす御返事・昭法全590】
訳:私たちには戒という舟筏も破れてしまい(戒を保つことが出来ず)、大海にも喩うべ生死の迷いの世界を渡る御縁などまったくないのです。智慧の光は曇り生死の闇を照らし難く、今生で覚る道を歩み得ない私たち凡夫を慈み、施された仏様の他力こそ、『無量寿経』に説く阿弥陀さまの第十九来迎の願のことなのです。ですから善導大師は『観無量寿経』に説く中品下生を解釈するにあたって、仏の来迎は自明の理としてお示しにならなかっただけなのですから、お念仏を称えればどなたにも必ず来迎はあるものなのです
【法然上人のご法語① 消息編 157P 浄土宗出版局】
法然上人が出されたお手紙となります。これは、中国善導大師が『観無量寿経』の解釈にて、中品下生の箇所にて、阿弥陀様の来迎について触れられなかったことを不審に思われたことに対する法然上人のお返事になります。
私たちは、戒を保つこともできず、迷いの多いこの世界から抜け出すことが難しいとされます。そして、私たちを慈しみ、阿弥陀さまの他力の力こそ、『無量寿経』に説かれた第十九番目の願、「来迎の願」であるとされました。そして、善導大師は、自身の解釈において、阿弥陀さまの来迎は当たり前のことであることから、そこに記さなかっただけであるとされました。そして、善導大師こそ、お念仏にて極楽往生が叶うと示されているのだから、私たちもお念仏をお称えすれば、だれでも阿弥陀様の来迎を受け、極楽浄土まで連れて行って下さるとされました。
少し、難しく感じられるかもしれませんが、当時は亡くなるときの作法やどのように亡くなったかが重要視されていました。例えば、善知識といって、亡くなる方の枕元へ僧侶を呼び、読経や五色の糸を仏様の像と結び、そのご縁で浄土へ往生を願ったりしました。
つまり、亡くなり方で次の輪廻、生まれ先が変わると思っていたのです。そのため、中品下生の箇所に、阿弥陀様の来迎が書かれていないことを不審に思われたのです。
さて、当時の人々も、今の私たちも、お念仏をお称えすれば、阿弥陀さまが枕元まで来てくださり、私たちを極楽浄土まで連れて行ってくださります。このことは、阿弥陀様ご自身が十九番目の誓願、お誓いとしてお建てになられたことで疑いようもないことです。どうぞ、ご安心してお念仏をお称え下さい。
合掌