『未来の私たちのために』 | 浄土宗長福寺のブログ

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埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 私たちが生きているということには、様々な意味があると思います。その中に、なにかを未来に残そうとしていることも含まれているのではないでしょうか。

 例えば、野菜を作ることは、ものすごく近い未来ではありますが、収穫出来たらお店に並び、その後に食べてもらうために、未来の人に食べてもらうために作っていることにならないでしょうか。

 例えば、大きな橋はどうでしょうか。今、作っている橋は、長い未来にわたって、未来の人々に使ってもらうことができます。

 今月は、阿弥陀様の教え、阿弥陀様が未来の私たちになにをしてくれているのか見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

いかなる弥陀か十念の悲願をおこして十方の衆生を摂取し給う、いかなるわれらか六字の名号をとなえて、三輩の往生をとげざらん。永劫の修行はこれたれがためぞ、功を未来の衆生にゆずりたもう。超世の悲願は又なんの料ぞ、心ざしを末法のわれらに送り給う。われらもし往生をとぐべからずば、ほとけ、あに正覚をなり給うべしや。われらが往生はほとけの正覚により、ほとけの正覚はわれらが往生による、若不生者のちかいこれをもってしり、不取正覚のことばかぎりあるをや。

【登山状・昭法全432】

 

訳:わずか十遍であってもお念仏を称えたならばあらゆる世界の衆生を極楽に往生させようと、慈悲深い願を誓われた阿弥陀さまとは、どのようなお方なのでしょうか。南無阿弥陀仏という六字のお名号を称え、三輩往生を遂げる私たちとは、いったいどういう者なのでしょうか。阿弥陀さまのはかりしれないほどの永い修行はだれのためかと言えば、その功徳を遠い未来の衆生に譲り与えて下さっているのです。あらゆる仏さまにもまして慈悲深い誓願はなぜかといえば、その志を末法に生きる私たちに向けて下さっているのです。

 私たちの往生が叶わないというのであれば、阿弥陀さまは覚りを開かれたといえるでしょうか。もし阿弥陀さまが覚りを開かれていないというのであれば、どうして私たちの往生が叶うというのでしょうか。私たちの往生が叶うのは阿弥陀さまが覚られたからであり、阿弥陀さまが覚られたのは、私たちの往生を叶えて下さるからなのです。「もし往生できなければ」という一節はこのように理解せねばならず、「決して仏とはならない」と誓われたお言葉に、いかなる限定があるというのでしょうか。(いや、あろうはずもありません)。

【法然上人のご法語② 法語類編 114P 浄土宗出版局】

 

 阿弥陀さまのお誓いは、自分の後に続く未来の私たちのためのものです。ご自身で極楽浄土を開かれ、そこに往生するためには南無阿弥陀仏とお称えするだけで良い、そのようなお誓いを建てられて修行をなさり、覚りをお開きになられました。

 阿弥陀さまが覚りを開かれたということは、そのお誓いが必ず達成されることであります。ご自身が覚りを開いたならば、もしくは、お誓いが達成できなければ、仏にならない、つまり覚りを開かないというお言葉から、阿弥陀さまの深い決意と深い慈悲、未来の私たちへの思いが感じられるのではないでしょうか。

 南無阿弥陀仏とお称えするとき、阿弥陀さまのお顔を拝し、未来の私たちへ深い慈悲、思いを感じていただければ、お念仏の更なる助けになると思います。

合掌