『お念仏と共に生きる』 | 浄土宗長福寺のブログ

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埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 今月は、お念仏と共に生きていくということについて、法然上人のお言葉を見ていきたいと思います。

 

 法然上人の御法語に

乃至の一念即ち往生を得るの事。

我等は一念の機にあらず、乃至(ないし)の機なり。云云。また乃至十念も此くの如し。吾等は十念の機にあらず、乃至の機なり。云云。釈に上一形(いちぎょう)を尽くし、下十声一声等に至るまで定んで往生を得、と。また此くの如き我等は下至十声の機にあらず、上尽一形の機なり。

【三心料簡および御法語・昭法全452】

 

訳:たとえ一遍でもお念仏を称えれば、命終の後ただちに往生することについて。

 私たちは、わずか一遍のお念仏で、もうそれで充分だ、という身の程ではありません。一生涯を通してお念仏を称え続けるべき身なのです。「乃至十念」も同様で、お念仏を十遍称えさえすればそれでいいというわけでなく、臨終まで称え続けるべきなのです。善導大師も、「長くは一生涯称え続けるお念仏から、短くは十声、一声のお念仏にいたるまで、必ず

往生が叶うのである」と説かれている通りです。このように私たちは、わずか十遍のお念仏でもう充分だという身のほどではなく、一生涯と通して相続すべき身なのです。

【法然上人のご法語② 法語類編 308P 浄土宗出版局】

 

 物事を続けていくということは、大変なことです。特に、新しいことを取り入れ、毎日行っていくことの困難さは、昨年の春以来、皆様実感されていると思います。

 少し前までは、どれだけ手間をかけずに最大の利益を得られるかを競い合い、それをもてはやしたり、短期間に代わる流行を追いかけたり、そういったものに一喜一憂していたと思います。しかし、このような事態となり、今まで続けていた普通の生活がどれだけありがたかったのかと改めて考えさせられました。

 さて、私たちも極楽往生を願い、お念仏を称えておりますと、「お念仏はとてもありがたいものであるから、一回、もしくは十回称えれば十分なのじゃないか。それ以上称えても大変なだけじゃないか」ということを聞いたり、思ったりしてしまうかもしれません。

 しかし、法然上人のお言葉とみていきますと、そのことを強く注意されております。私たち(これは法然上人ご自身も含めての意味があります)は、わずか一遍のお念仏でもう充分だという身の程ではありません。一生涯を通して、お念仏を称え続けるべきなのですと勧められています。

 まずは、一日十遍のお念仏を毎日称えてみるところから始めてみましょう。お風呂に入った時でも、寝る前に布団に入った時でも構いません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称え、長い人生、そしてその先を思いながら取り組んだいただければと思います。

 

合掌