浄土宗長福寺のブログ

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埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 今月は、熊谷直実の「ご往生」についてお話ししていきます。

 

本文:

 建永二年(一二〇六年)八月に、「蓮生は、明年二月八日に極楽往生いたします。私の申すことに万一疑いのある人はやって来て見るがよい」ということを記して、郷里の武蔵国の村岡の市中に高札を建てさせた。(中略)多くに人々が目を見張っていると、少しして念仏をやめ、目を開けて、「今日の往生は、日を延ばすことにしました。この次の九月四日には間違いなく往生の本望を遂げましょう。みな様またその日においでになるがよろしいでしょう」と申したので、群がり集まった人々は嘲笑して帰った。(中略)

 四日の午前四時ごろ湯浴みして身を清め、だんだんと臨終の支度を整えた。たくさんの人が再び集まることは、にぎやかな市のようであった。はや午前十時ころになると、法然上人が秘蔵していたもので、蓮生が京都から武蔵国へ下向する時にお与えになった、阿弥陀来迎の三尊及び、たくさんの化仏や菩薩の姿を一幅の図絵にしたものをおかけ申し上げて、姿勢を正して座り、合掌して、大きな声で念仏を盛んに称えていたが、その念仏とともに息が絶えた時、口から光明を放った。その長さは五、六寸(訳一五から一八センチ)ほどあった。空には紫雲が盛んにたなびき、音楽がほのかに聞こえ、すばらしい香りが芳しく漂い、大地も震え動いた。不思議な瑞相が続々と連なって、五日の午前六時ころまで続いた。(中略)

 蓮生の往生に現れた霊異が、この上なく実に稀なことであったので、蓮生は、本当に上品上生の往生を遂げたことは間違いないと、人びとは話し合ったことである。

【現代語訳 法然上人行状絵図 299】

 

 蓮生(直実公)のご往生のお話をあげさせていただきました。坂東武者でありましたが、その後、お念仏の教えに出会い、一心にお念仏とお称えし、そのご往生を迎えました。

 高札を建てて、人びとを集めてしまうのは、いささかパフォーマンスが過ぎるようにも感じます。しかし、お念仏により極楽往生できるのだというのを、京都から遠い関東の地で示すためにも、自身の往生を見せることが大事だと考えられたのかもしれません。

 一度は日を改めたものの、九月四日には身を清め、場を整え、お念仏を高らかにお称えしながら、息を引き取り、ご往生をされました。その時には、阿弥陀様たちがお迎えに来られ、様々な瑞相が起こり、人びとは蓮生が本当に往生されたのだというのを深く感じ、お念仏のありがたさを心に刻んだことでしょう。

 法然上人からお念仏の教えをいただき、遠い関東の地へその教えを広め、自らお念仏の実践者として人々にそのお姿を示されたことは大変すばらしいことでした。『坂東一の武者』が、『坂東一の念仏者』となり、極楽往生されました。埼玉に住む私たちも、蓮生(直実公)のお姿を見習い、お念仏に励んでいきましょう。

合掌

 今月は、熊谷直実のエピソード「逆さ馬」をお話ししていきます。

 

本文:

 蓮生(れんせい・熊谷直実が名乗った僧としての名前)は、どのようなことをしていても、西方に背を向けるなという文を、深く信じたのであろうか、ほんのしばらくの間も西に背を向けなかったので、京都から関東へ下った時も、鞍を前後さかさまに置かせて、馬にも後ろ向きに乗って、馬の口を引かせたという。そうであるから蓮生は、

 浄土にも 剛の者とや 沙汰すらん 西に向かいて うしろ見せねば

 (浄土においても信心頑固な者と噂されていることであろう。西に向かって決して後ろを見せないので)

という和歌を作った。法然上人も、信心堅固な念仏行者の例として、いつもお思い出しなされて、坂東の阿弥陀仏だとおっしゃった。

【現代語訳 法然上人行状絵図 294】

 

 坂東武者として、名声を得ていた熊谷直実公でありましたが、世の無常を嘆き、法然上人にであったことで刀を捨て、お念仏に生きることとなります。法然上人のそばに仕えておりましたが、その後坂東・関東へ下向する時を迎えたときのことです。

 西方は、阿弥陀如来の極楽浄土があり、西に背を向けることは阿弥陀さまに不敬であるという文がありました。それを深く信じたのか、一瞬でも西に背を向けるのを避けるようになりました。

 関東へ向かう馬に乗るときも、鞍を前後さかさまに付け、後ろ向きに乗って、つまり自分は西を向きながら、馬を東へ向かわせたのです。そして、信心堅固な自分のようなものは、極楽浄土でも噂になっているだろうというお歌も作りました。

 この辺りは、名声を大事にした武者としての見栄をはっているようにも感じます。しかし、法然上人は、信心堅固な念仏者として、「坂東の阿弥陀仏」とおっしゃっていたように、阿弥陀様を深く信じ、常にお念仏をお称えしておりました。

 私たちが、西に背を向けずに生活することはとても困難ですので、まねをしなくても大丈夫です。しかし、西方・西の極楽浄土から阿弥陀様、ご先祖様が毎日私たちを見守って下さるということは常に心に持ち、感謝してお念仏をお称えすることはとても大事なことです。

合掌

 今月は、法然上人と最北の有名人、熊谷直実の出会いのお話をしたいと思います。なお、熊谷直実は、くまがいなおざねと読みます。

 

本文:

 武蔵国の御家人の熊谷次郎直実は、源氏が平家を追討した時、各地の戦いで忠義を立てて武名をあげたので、戦の道では比べるもののないほどの人であった。ところが、前世で積んだ善根が心のうちにきざしたからであろうか、将軍源頼朝に対して不平に思うことがあって、発心し出家して蓮生(れんせい)と名乗った。〈中略〉

 この時、法然上人が、「罪が軽かろうが重かろうが、ただ念仏さえ申したならば、極楽に往生するのです。そのほか、何をせよということはありません」とおっしゃったのを聞いて、蓮生はさめざめと涙を流したので、上人は、とんでもないことだと思いになって、何もおっしゃらない。しばらくして、「どんなわけでお泣きになるか」と尋ねられたので、直実は、「罪深い者は手足も切り捨て、命も捨ててこそ、後の世は仏に救われるであろうと、お聞きするものと存じておりましたところ、〈ただひとえに念仏さえ申したならば、必ず浄土に往生できます〉と、こともなげな教えを受けましたので、あまりにもうれしくて泣いてしまいました」と申し上げた。

 本当に後の世のことを恐ろしいものと思っていたので、上人は、「何の智慧もない罪人が念仏を称えて浄土に往生することは、阿弥陀仏の本願のご本意なのです」とおっしゃられ、念仏の心構えについて詳しくお授けになったので、直実はこれに背くことのない専修の行者となり、長い間上人のもとでお仕え申し上げた。

【現代語訳 法然上人行状絵図 277】

 

 JR熊谷駅の北口に、熊谷直実公の武者の像があります。なるほど、武門の名声が轟いたほどの勇壮なお姿です。しかし、その後世は法然上人に出会い、お念仏を常にお称えする念仏者でした。

 これには、平家物語で有名な『敦盛』のように、武門として幼齢な者などの弱者にも刃物を向け、時に火をかけ、敵を打たねばならい宿命に絶望したことにあります。そして、自身の半生を振り返ると、多くの罪を犯してきたことを嘆いていました。

 そんな時、法然上人に出会い、自身の罪を悔い、一心にお念仏を称えれば、極楽往生できるという教えを聞き、どれだけ心が救われたでしょうか。直実公の涙に偽りなく、法然上人もそのことに感じ入り、傍に仕えさせ、お念仏の教えを授けました。

 私たちも、この世の中の新しい価値観だからと、金銭欲や名誉欲にだけ捕らわれ、周りの人を虐げないようにしたいものです。そして、お念仏の教えを正しく受け止め、人々と助け合う中で、一緒にお念仏に励んでいきたいものです。

合掌