その宣告とは、「異動」というものでした。そもそも、前任校で最後までと思っていた私でしたが、この学校に異動し、せめて残された期間はこの学校で思っていました。


 教員生活を全うするまでのあと2年、また新たな環境に身を置くのは流石に厳しいと考えたのもありますが、何より権力に抗う気力を失っていたのも事実です。


 人は認められてこそ成長する。それに年齢は関係ないと思います。自分が求められていないと認めるのは苦しいものですが、本当に認めてもらいたいと思える相手でなければ、闘う気持ちも失せてしまうものです。


 思えば、前年から同教科の教員が増え、入れ替わりが激しくなる中、3年目の私がこの教科の一番古株になっていた時点で薄々管理職の考えがわかっていました。


 野球部の方も、教育実習でやってきた学生が実は前任校で私が指導した野球部の主将であり、外部指導員としてお手伝いをしてくれる事となっていたし、前回紹介した大学生も引き続きコーチをしてくれる事が決まっていました。


 また副顧問だった教師も正顧問を引き受けると言ってくれたのも「退職」を決める要因となりました。そう決めると、3月までは全身全霊を野球部と学校に傾ける意思も固まりました。


 ただ一つ心配だったのは、この学校で育っていく若手教師たちの事です。信頼出来るトップとの出会いは、人を大きく成長させるものです。私も尊敬出来る管理職や、顧問との出会いで多くの事を学びました。


 しかし、納得のいかないトップとは闘ってきました。その結果が今です。うまく付き合えばまた違った教員生活が送れたかもしれません。今の若い教師は抗う事を奪われてしまったいるようで仕方ありません。


 教育とは信念のぶつかり合いの中で成長していくものだと思います。若い教師には自分の信念を曲げる事はして欲しくないのです。そして力ある管理職ならば、それを受け入れながらも正しい方向に導いてくれる筈です。少なくともそう信じたい。


 ネクタイをしてどっかと校長室に座ってる人も暑い日差しのグランドで、蒸れる体育館や教室の中で、必死に生徒と対峙している人も同じ教員なのです。


 そして主役は生徒。我々はいかに生徒の可能性を伸ばしてあげられるかが仕事です。ただし忘れていけないのは、その全ては生徒自身の力であり決して指導者の力ではないという事。


 勘違いしている教員は残念ながら多くいます。出来ない自分がいるからこそ出来るようになっていく子供たちをリスペクト出来るのです。


 学びは死ぬまで続く。私たちは子供からも大人からも多くの学びが得られる恵まれた仕事なのです。退職までの数ヶ月色んな事を考えさせてもらいました。


(感謝30に続く)