一説によるとそれは仏教と共に愛染明王が伝来した際に「愛」という言葉と概念が齎されたともいうし、また一説においてはキリスト教の伝来と共に「愛」の概念が変化したとも聞く。
ここら辺については詳しく調べていないので詳細は割愛するが、とにかく日本人が想像する…もしくは理解している愛とは愛欲的な愛であることが多いとのこと。
しかしながら
仏教的にせよキリスト教的にせよ愛という言葉の後ろに隠された意味はそれぞれに異なるのは確かではあるようだ。
私は愛と言うと二つの独立した意味のものを思い浮かべることが多い。
ひとつはアガペー的な愛であり、もうひとつはプラトン哲学におけるエロース的な愛である。
アガペー…それは天の愛であり太陽の光。天上から人々の元へと降り注ぐ降り来る愛。
自分からするとそれはこの世界をこの世界たらしめているという、存在を赦す愛の力。
恩情と残酷さに溢れた力。
対してのプラトン哲学的なエロースは真善美のイデアを希求する、天へ向ける人からの愛であるという。
このプラトン哲学的なエロースという言葉は、確か「饗宴」という本で覚えたと思う。
もちろんこの「饗宴」もプラトンの著作だ。
あれは自分が小学生の時だったと思う。いつもの通りに駅の上の本屋や商店街の本屋をハシゴしながら素晴らしい時間を過ごしていた日々の欠片での出来事。
あの本を通して、自分は確かにプラトン的なエロースに魅了されていた。
そしてその魅了は未だに自分を捉えて離さない。
であるから、私の心の中では愛と言われるとこのプラトン的なエロースを思い浮かべるのである。
と、同時に…アガペーをも思い出すのは
多分このエロースに対する憧れが
永遠の一方通行な片想いであることに恐れている
自分のひ弱な心を反映してのものなのだろう。