もっともこれは学校教育というものの意義から考えるとまず最もな答えでもある。
特に人間が人間社会で生きて行く上で必要な知識や情報を子供の頃から覚えさせることで、その教育を受けた子供は社会で「役立つ」人間となる。
そしてこの意図は産業革命時代のヨーロッパや、南北戦争時代のアメリカにおいて勝利を得、そのまま現代の日本の教育の土台ともなっている。
学校教育といえば、普通はアカデメイアなどに始まる高等で洗練された学問などを想像しがちではあるが、残念ながら高等教育と初等教育では教える側の意図が明確に異なるのだ。
簡単にまとめると、初等教育における教育の意図はこうだ。子供が将来、良き働き手となるように社会や会社で共有されるだけの知識や情報(その中にはもちろん集団行動や上司に従順であることも含まれる)を徹底的に教え込むことである。
これは対象となる子供が属する社会、ひいては国家が近代以降に人類が確立した文化レベル以上であることを示すともいえる。
残念ながら、近代以前の農耕や牧畜のみで生きていく上では学校教育などというものは無用なものであるのである。
学校がある国家は近代以降の社会システムを構築し、またその割合が大きな国家だ。そこには工場があり、会社があり、大規模な生産体系が存在する。
そのシステムにおいて、読み書きや一定レベルの知識や情報といった常識は雇われる側に当然として存在する。
子供に与える教育はその子供が将来、大人となった時に「役立つ」人材となるための一種の洗脳であるとされるのはこのような体系が隠されていからだ。
話は逸れてしまったが、学校教育というものが一種の洗脳であるといえる。という事実はここに整理できたように思う。
ここでもう少し掘り下げていく。
学校教育とはひとつの教育システムである。
特に日本は「どのような」子供であっても一定の教育を習得ができるように、綿密に計算された大きな教育の流れというものが存在している。
いわば指導要領などと言われるものなどがそれに当たる。
この指導要領があるおかげで教師はより、安心して子供に教育を施すことができる。
一定のリズムと運びで構成される教育は、その内容も一定の方向性で固定化される。
昨今は個性を重視する教育に移行し、以前よりはその大量生産的な教育システムはやや軟化したが、やはりそれでも一定の方向性でもて子供の良心や発想をコントロールしようとする意図はまだあるように思える。
これらのことを総合すると、やや強引ではあるが教育というのはほかの味方をすると洗脳そのものであると考えても良いのでは無いだろうか。
教育は一定の方向の思想と発想と人格を形成させるのである。