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欠けた月

とある占いによると月は心を現すといいます。
私の月は欠けた月。押しつぶされた月。

そんな脆弱さから出てくる無意味な言葉の羅列。あるいは叫び。あるいはメモがわり。

つまりは狂人の妄想
多分…

瞑想をする時に対象を何に向けるか?ということはとても大切であると思う。
多くの場合は瞑想などをする人は自己研鑽を惜しまぬ人で、解脱やらを目的としているので自分を見る人が多い。
次に多いのは阿字観などでは無いだろうか。

私は自分にはそこまで興味もなければ阿字観は、昔やった梵字の意味当てゲームでさんざっぱら遊んだのでこちらもあまり興味が無い。

昔から私が興味があるのはこの宇宙である。
宇宙に意識を向けると言っても、なかなか難しい。
普通に宇宙にだけ意識を向けると様々な情報が雨や嵐のように流れ込んでくる。
一応は、セーフティが機能しているのでそれらをマトモに受けることは無い。
(マトモに受けていたら発狂するか、脳が出血しそうだ)

人の身の器の小ささ…もとい私自身の未熟さを思いかえって、宇宙の中でもどこを見るか?を決め直す。

中々に選択の幅が広くて困る。
先程の多くの情報の中でも、理解できそうなものを思い出してみる。
力の本流そのものであり、カオスのように流れゆく力。多分これは地球に流れ込む力を、どこかの立場で見たものだろう。
もう少し詳しく見ても面白いかもしれないが、とりあえず保留にする。

次に思い出すもの…意外に暗い空間のなきで瞬く光。普通に宇宙空間だけれど、これもそこまで興味はない。

ほかにもつらつらと思い出してみる。
その中で面白い気づきがあった。
意外と私は固定観念で宇宙を理解(解釈)しているらしい。
ほかの視点からみる宇宙というものは、最初は理解し辛いが、理解してみるととても興味が深い。

縁で繋ぐ宇宙のビジョン。
これだ。これは面白い。

しばらくはこれを見てまた暇つぶしをしてみようと思う。
空海の十住心論はそんなに丁寧な書ではない。むしろ突き放していると感じているのは私だけだろうか?

十住心論においては悟りの境地に至るまでの心の階梯が10の段階に分類され、悟りに至るためにはどのような心であり続け、またどのように心を成長していくかを解いてはいる。が、830年くらいに書かれた書物であることも手伝ってか、最近の書物のようにあれこれと親切にその心の変化などについて詳しく書いている訳では無い。

しかし私はそれは当然であるのではないかと思っている。というのも十住心論は思想的な空海のクローンを作ることが著者である空海も無意識のうちに目的化しているように思えるからである。
いや、ひょっとしたら意識してそうなっているのかもしれない。

多分、空海の十住心論は空海の思想の足跡だ。彼の理解では、悟り=自分へと至るものは導かれるように似たような思想のステップを踏むであろうと考えたのではないだろうか。

もしそうであるならば、そこに説得は必要が無い。
むしろ何も言わずとも十住心論と同じような段階で思想を発展させた者こそが空海の求めた人物であったかもしれない。

では十住心論はなぜ書かれたのか?
歴史的には淳和天皇の勅に応えた形で作られたとされている。淳和天皇は当時流行っていた宗教の教義解説書をそれぞれの宗教に作らせようと考えていて、この空海の十住心論はその意図に沿って「真言宗」を著したとされている。

基本的にはこの十住心論の意義は、単なる真言宗の教義解説にとどまらず、ほかの宗教についても簡潔に述べているところでもある。
そしてその結果として(もしくは意図的に)真言宗こそが他の宗教より勝っていると証明を下した本となっているのである。

真言宗を開いた空海だからこそ、また様々な宗教などを学び、失望し、また道を求めた空海だからこそできた書物であることは言うまでもない。

そしてだからこそ、この十住心論は空海の思想の足跡をたどるテキストとなっているのであるのだろう。

つまりは空海は自分のように学べば、自分のようになれるし、また悟りへと行けると考えていたのだ。
これは別に彼がナルシストであったわけでも、自信過剰であった訳でもないだろう。

彼は彼なりに一生懸命に生きて学んで、悟りを求めたのである。であればこそ、彼の教義が彼の足跡を辿るのであれば…これほどまで自然なことは無いと思う。
教育というものがいわばひとつの洗脳であり、一定の方向性の発想や人格等を形成させると前回考えた。

学ぶということは、ややもすれば人格を作り出せることもあるというのが私の信念のようなものである。

だからよく○○学派とか××学派という言葉があるが、これは思想的なクローン集団であると幼いころの私は捉えていた。
小学校の六年生の時に学閥は思想的なクローンを作るものであり、ある意味で宗教のそれもあまり変わりがないと私は先生に主張し、そのまま宗教と教育の話などにその時間はなだれ込んだことがあるのは良い思い出である。
あの先生は子供の戯言によく付き合ってくれたとおもう。

話を戻すと。私はひとつの優れた教育体系はそのまま思想的なクローンを生成するものであり、それは、物理的な出産を伴わない思想的な子孫の形成であると考えているわけだ。

そこで私がずっと感じていることがある。
それは空海の著した十住心論である。
十住心論を簡単に説明すると…人の心のあり方を十の段階に分類し、またそれぞれの心のあり方のレベルが既存の宗教や思想にも適応されると説いた論である。以下にwikiこら転載するとこうなっている。

  1. 異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
  2. 愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
  3. 嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学老荘思想の境地
  4. 唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地
  5. 抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地
  6. 他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識法相宗の境地
  7. 覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観三論宗の境地
  8. 一道無為心(如実知自心・空性無境心) - 大乗仏教のうち天台宗の境地
  9. 極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地
  10. 秘密荘厳心 - 真言密教の境地


これを見て私が最初に感じたことは
これは空海自身が自らが学んだ足跡であると言うことであった。わりと昔で余り記憶にはないが、このように感じたのは確か中学校の頃であったと思う。
博物館での催し物かなにかでこの十住心論の事がチラリと書いてあって、私は「なるほど、空海は自分がこのように思想の成長をしたので、それを他者にも伝えたかったのだな」と思ったことだけを覚えている。

そしてその時の思いは今においても変わってはいない。むしろそれを土台として、空海はかなり意図的にこの十住心論を書いたのであると感じている。

その意図とほそのまま、自らの思想や思考パターンに限りなく近い別個体…思想的な子孫を残すというものである。