集中する、ということは難しいと感じる人が多い。
それというのも集中という言葉が指すアクションは非常に幅が広く、また具体的に考えていくと簡単なものから難しいものまでバラエティーに富んでいることが問題なのだろうと思う。
また集中することにより、全ての仕事や作業が超一流のものに仕上がるという意味不明な幻想も問題なのではなかろうかと個人的には考える。
確かに物事によっては片手間に作業するよりは、よく対象を観察して。また手間ひまをかけて対象に心血を注ぎ手や暇をかけて仕事を働きかけた方が、より良いものが出来上がることもある。
しかしそれが全てであり真理であるか?と考えると、私はそうでは無いとおもう。
集中とは言っても、適度な集中というものが対象によって様々に異なるのだ。
また集中という言葉は本当に便利で、他者に誤解を与えやすい。集中しさえすれば何事も上手く出来るという印象を与えてくる。
そしてそのせいで。本当は集中などで来てもいないのに、自分は集中していると誤解していることも世の中には少なくない。
成功の積み重ねからくる集中というアクションの誤解が生じているのだ。
本当の集中とはなんだろう?と自分で考えてみる。
それはやはり心の中でも大切な部分、また目標に対して必要な割合を対象に向けることであると思う。
人間の意識はひとつの物事に集中していると思っていても、実はそうでも無いことが多い。
もし習字で「初日の出」と書くことに集中しようとしている場合、人の意識は書く時の姿勢、リズム、筆の持ち方、筆を持っていないもう片方の手へ送る感覚。また今から書こうとする文字、書こうとする文字の紙に対しての大きさや比率、その他etc.
様々なことに心を置いているはずだ。
集中とは言ってもそれらの中でどれか一つだけ。なんてことは出来はしない。
つまりは自分の心の中で自分が成し遂げたいこと、やりたいことを明確に決心し、その目標に対して一番最適であると考える方法で物事に対峙する。この一連の流れが集中なのである。
世の中のプロは対象に応じて自分の心をどの程度、どの方向に差し向けるのか、ということに精通している人達であると自分は認識している。
それというのも彼らは対象に対して「自分の場合」はどこに気をつかい、どのような集中で対峙すれば良いのかということを学習しているからである。
かつてはこのようなことを論じるまでもなく、多くの人々は自由に物事を楽しみ、また結果を残してきた。しかし最近はある一定以上のクオリティが求められる社会なせいか、結果のみを求めるがあまりにこんな、基礎的なことがよく分からなくなり困っている人達を見るような気がする。
何が彼らをそこまで追い詰めているのか?
簡単にまとめるとそれは彼らの周りの環境であり、社会であろう。
どんなに集中力がある人間であっても、周りが危険に満ちていてはその集中力の一部は必ず削がれる。
もしそれでも対象に集中できるというのであれば、それは社会で生きていくにはあまりに生き辛いものとなる。
つまりは集中できる人間、できない人間というものは、突き詰めるとその人個人の資質と言うよりは周りの環境、ひいては社会が作り出しているのではないだろうか。
であるので、自分は集中力がない。とか自分は能力が劣っていると自信をなくしている人はまず、己の置かれている環境を変えるのが良いと私は思う。