最初は ベリーダンスを教えるひとになりたいって

 

子育て中のママさんたちと 一緒に踊りたいって

 

思っていたのね。

 

 

 

ママたちの 息抜きの場所になりたかった。

 

わたしが 助けられたように…ね。

 

 

 

 

でも 少しずつ 少しずつ 

 

いろんな要素が 足し合わさって

 

今の私になっていくのです。

 

 

 

 

 

ある日、ね。

 

私は 左太ももに 肉離れを起こしたんだ。

 

踊りすぎ…なんかではなく

 

娘の幼稚園の運動会で

 

なぜだか そんなキャラでも 脚の速さもないのに

 

親のリレーで 走る役にあたってしまったの。

 

 

 

 

たしか、娘が園での運動会の練習の時間に 一生懸命走っていて感動しましたって

 

わざわざ 園の先生が お電話くださったことがあってね(よっぽどやってなかったんだね(笑))。

 

そのお電話で 「 PTA競技のリレーで走ってくれるお母さんが足りないんですよ~ 」 って言われて。

 

よせばいいのに なぜだか がんばった娘の手前断れず 「 走ります! 」 と答えていたわたし。

 

 

 

小さな 園のグランドを1周走るだけのことが

 

四分の1走ったころから 全然脚が前に出なくなって

 

びっくりしている間に 終わってしまって。

 

 

 

結局完全に治るまでに 2か月ほどかかったでしょうか…。

 

 

 

なんかね。前の日、何かが起こるって 予感があったの。

 

「 私は 何か 世の中の役に立てるひとに なりたいです 」 って

 

下の子を寝かしつけながら 夜空に向かって心の中で叫ぶのが日課になっていたのだけれど

 

その前の日の晩は なんだか 人生を変えることになる出来事が

 

明日起こるような気がするって そう思ったの。

 

そしたら 肉離れだった っていうね。

 

なにがだよーって思ったよね。 まともに歩けなかったものだから

 

だんなさんにずいぶんお世話になってね。

 

やっぱり 家事できるひとで よかったな なんてことになって。(本当に感謝しているよ…♪)

 

 

 

でも その脚のために 初めて行くことになった整体で

 

「 操体法 」 という 療法に出会います。

 

 

 

うまく説明できないのだけれど、

 

「 ラク~なほうに 動かすと ラクじゃなかったほうが 動くようになる 」

 

という なんとも 不思議な 施術だったのですね。

 

 

 

今まで体に対して思っていたこととは 真逆なところがあって

 

目からウロコで。

 

 

 

 

興味津々な わたしは

 

いろいろ 取り寄せて勉強を始めます。

 

 

 

 

ダンスの練習も 子どもが寝てから。

 

長いこと  栄養ドリンクを飲んで 乗り切っていましたね。

 

 

 

そして なぜだかわからないけれど

 

ずっと 眉間に 大きなニキビが出続けていたんです。

 

なかなか 治らなくて。

 

 

 

不思議に思っていた 私の目に あるとき飛び込んできた記事の中にあった

 

望診法 という 言葉。 いろいろ読んでみると

 

顔には 内臓の状態が 現れている と。

 

眉間は肝臓の状態を現す、と書かれていて

 

ハッとしました。 栄養ドリンクって肝臓に負担になるのじゃなかったっけ?


当時は  そんなことがリンクしてるなんて

思いもしなかった…。

 

体からは そんなサインが ちゃんと出てるんだ…!!(実際、飲むのをやめたら治りました。


そして、肝臓は感情の中では怒りを担当する臓器です。たしかに!)

 

 

 

食べ物と 体と 心の関係…。

 

娘が 落ち着きない(…と当時思っていた)のは

 

食べ物とも関係あるかもしれない。

 

 

 

マクロビの本も 読んだりしながら

 

さまざまな 学問を紐解いていきます。

 

 

 

そんな中、またしても 転勤の辞令。

 

 

 

結婚して8年の歳月を 四国で過ごしていた私。

 

幼稚園はちょうど卒業のタイミングだったけれど

 

大好きなベリーダンス教室ともお別れして…。

 

 

 

続く物語の舞台は 実家のある滋賀県に移るのです。

 

 


 

 

これまでのお話は こちらから読んで頂けます。ずいぶん長くなってきたなぁ(笑)

現在においつくまでにはあと2年ほどです!

でもこの2年が濃ゆかった…


 

1話 うまれる

2話 最初の記憶

3話 暗黒の幕開け

4話 静かなる挫折

5話 激流の中へ

6話 喜びに咲く華 待ち受ける闇

7話 妻として 母として

 

 

下の子の妊娠が わかったのは

 

だんなさんが 半年の研修で 東京に行って

 

すぐのこと。

 

 

 

そのときには わたしはまた 病院に勤めていて

 

上の子は 保育園生活。

 

忙しくはあったけれど、私の精神状態は

 

お外でお仕事しているほうが ずっと穏やかでいられました。

 

 

 

1日中 子どもとべったりの生活から

 

少し手が離れて…。 子育て以前の私の感覚が思い出せたり、 

 

主人もいないから 気軽に娘と お外ご飯に 行ったりして

 

ちょっと自由な感じに(笑)。 

 

 

 

娘とふたりで デートできるのは 今のうち

 

と 休日には 直島に行ったり

 

アンパンマン列車に乗りに行ったり

 

大切な 愛しい時間が たくさんあったよ。

 

 

 

人見知りが激しかった 娘にとっては

 

保育園に入った当初は 試練だったと思うけれど

 

ここから どんどん 外交的なキャラクターになっていきます。

 

 

 

そして、主人の次の転勤が 高知県になる とわかって。

 

 

 

3月に研修から帰ってきた主人と 入れ替わるように

 

私と娘は 実家のある滋賀県へ。

 

4月からは 高知で勤務になる主人に 引っ越しはお任せして

 

またしても 職場は1年ほどで辞めさせてもらって

 

バタバタと 出産へともつれこみます。

 

 

 

 

そして なぜだか 本当になぜだったのか わからないのだけれど、

 

出産直前の私、ベリーダンスに心惹かれていたんですね。

 

DVD付の本を取り寄せて 出産終わったら やってみよ~と思って。

 

 

 

 

そんな流れの中で 

 

下の子が生まれる・・・ お母さんが病院に入院する・・・

 

という 上の子にとって 避けがたい試練が やってきます。

 

 

 

 

今まで 独占できていたお母さんが

 

下の子に とられる…

 

 

 

わたしは ひとりっ子だから

 

想像するしか ないのだけれど…

 

 

 

わたしは 自分の母に 甘える ということを

 

自分で 封印してきたから

 

 

 

そこまでして 母を求める という 強さには

 

圧倒されっぱなし…。

 

 

 

 

ひと月の里帰りが 終わったら

 

もう高松ではなく 高知の家に“帰る”という状況で。

 

高知に移り住んで すぐ 幼稚園生活にもなって。

 

 

 

環境の変化がいっぺんにきて

 

本当に 大変だったろうな と 思う。

 

 

 

赤ちゃん返り… というのは あるだろう という予測を

 

はるかに上回る癇癪を 起こすようになり

 

泣き叫び 怒り狂っていた 娘ちゃん。

 

 

 

攻撃の矢が飛んでくる 感覚の中で

 

下の子を 守らなければ という気持ちも芽生え…

 

 

 

私も 一緒になって 怒り狂っていました。

 

ご近所には… 本当に申し訳ない状況だったと思う…。

 

通報されても おかしくなかったなぁ。

 

彼女の泣き叫ぶ声で 私の声が届かない… 

 

それしか伝える手段がない…となってしまい

 

叩いたことも あります。

 

 

 

 

フラフラで 家事も よろよろとしかできず

 

だんだんと 気分がふさぎ込んで 鬱のようになっていきました。

 

 

 

 

もてるだけの愛情を 注いでいるはずなのに

 

もう一滴もでないのに まだ

 

「 足りない 足りない 」 と言われている気がして。

 

 

 

 

きれい好きな 家事の上手なだんなさんからは

 

家事のできてなさを 指摘されたりして。

 

 

 

彼としては 家をきれいに保ちたかっただけだし

 

私を助けてもくれていたのだろうけど

 

仕事から帰ってくるなり 掃除機をかけられたりすると

 

わたしは 自分をひどく責められている気持ちになって

 

全然 喜べなく むしろ イライラ として。

 

 

 

 

赤ちゃんをおぶって 肩こりからの頭痛に悩まされながら

 

上の子の相手しながら

 

台所に立って ごはんをつくって…。

 

必死なのに もうめいいっぱいなのに

 

 

 

わたしが作った マーボー豆腐を食べて 主人が

 

「 この豆腐は 下ゆでした? 」 と 聞いてきたりするものだから

 

私も もう 限界でした。 下手に料理ができるだんなさんってホントに困るって思った。

 

冷蔵庫から 出してすぐのお豆腐ですけど なにか?

 

水っぽいって?! しらねーよっ

 

 

 

「 俺にはできないことを やってくれてる 」 と思ってくれるだんなさんがよかった…。

 

あのとき ほしかったのは できるだんなさん じゃなく 本当に尊重しあえる関係だったんだ。

 

 

 

共働きのときより ずっと 大変なのに

 

主人としては 「 専業主婦だろ 」 って感じで

 

家事をやってくれるにしても 「 やってやってる感 」 が満載。

 

「 俺なら 家事も育児も完ぺきにやれる自信がある 」 と言われたことも…。

 

 

 

 

結局、お金なの? 収入のない労働に 価値はないの?

 

もう 全部全部 ひとりで やればいいやん。

(って思うけど、たぶんものすごい負けん気でそれをやってしまえる人なので結局言わなかった…)

 

 

 

すべてに 腹を立てていました。

 

 

 

自分のこどもがいなかったころ 「 子どもが好き 」なんて言ってたのも

 

履歴書の自分の長所を書く欄に 「 穏やかな性格です 」 なんて書いていたのも

 

真っ赤なウソでした。 ホントーに ごめんなさい!! っていう感じ。

 

 

 

本当に いい家族なのに

 

どうして あんなに 居場所がなかったんだろう。

 

「 ひとりになりたい ひとりになりたい 」 と

 

呪文のように 唱えていました。

 

 

 

 

そして 理想の家族に思えた 主人の実家にも

 

抱えているものがあったことを 少しずつ理解していきます。

 

 

 

家族が 生きながらにして 会えなくなる… という

 

そんなことって ある? という展開に

 

自分も 手を貸してしまった罪悪感で いっぱい…。

 

 

 

もう とにかく なにもかもがぐちゃぐちゃだった 

 

わたしを 救ってくれたのが

 

ベリーダンス でした。

 

 

 

赤ちゃんいたら 参加できないところがほとんどだと思うけれど

 

その教室は 子連れで参加OKでした。

 

 

 

その教室も 立ち上がったばかりで。

 

タイミング よすぎる 出会い…。

 

 

 

最初は うつうつとした 体をひきずるようにしてだったけれど…

 

でも ベールを使った 振付に出会った瞬間

 

体の中に 熱いものが流れて

 

そして 思ったの。

 

 

 

「 わたし 自分の魂と 恋に落ちた… 」

 

って。

 

 

そうか、、ひとは 自分と 恋に落ちるために 生まれてきたのか…

 

誰かと恋におちるようでも それは 自分と恋に落ちるのと 同じことだ…

 

 

 

踊る 楽しさ

 

女性の美 を 表現する喜び に

 

引き込まれていきます。

 

 

 

 

母でもない 妻でもない

 

男性にみてもらうための 女 でもなく

 

わたしが わたしがあるために

 

踊ることができた 時間は

 

私に生きるエネルギーを吹き込んでくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果的に 母が亡くなって 2か月経たずに

 

私とだんなさんは 入籍することになります。

 

 

 

なかなか…ね。

 

本当は 考えにくい タイミングだった。

 

 

 

「 まだ ちょっと 待ってほしい 」

 

と 思っていたけれど そんな折、

 

彼は 職場が 大阪から東京に移ることになったんだ。

 

 

 

いつか 入籍するなら 今夫婦になっておいたほうが

 

旅費も少しは出るから… みたいな超現実的な話も出たりして

 

 

 

とにかく そんな 流れになった。

 

 

 

父は その時 退職を余儀なくされていて

 

妻も亡くしたばかりで 心は空っぽだったと思う。

 

 

 

「 なんで 今なんだ・・・ 」

 

うめくように つぶやいていた 父の背中。

 

 

 

それでも 最終的には 折れてくれた。

 

 

 

顔合わせの時間は つらかったのじゃないかな…と思う。

 

母が亡くなって 1年ほどは 逆流性食道炎で

 

胸のあたりが痛む と 言っていたよね。

 

 

 

火葬場に向かう とき だったかな

 

わたしと父は 手を つないだ。

 

何十年ぶりか わからないけれど そうした。

 

私が大人になっても まだ大きな 父の手。

 

 

 

言葉はなくても 伝わるもの。

 

父とは 小5のときから 単身赴任で 疎遠な関係だったけれど、

 

母とのことでは いつも中立の立場をとっていて 

 

私としては どこか頼りきれないものを感じていたけれど、

 

 

 

母が亡くなってから 少しずつ 溶けていくものがあった。

 

 

孫ができてからは さらに 愛情深いひとだったのだと

 

目を開かれる 思いがしたよ。

 

 

 

親子は 何歳からでも

 

やり直せるのかもしれないね。

 

 

 

育ててくれて ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

そう、そんなこんなで、

 

入籍して 1週間後には 主人は 東京へ。

 

結婚生活の始まりは、遠距離から でした。

 

 

 

じわりと焼けつくように

 

会いたい 会いたい と 募る思い。

 

 

 

彼は当時 会社勤めをしていたのだけれど

 

ひっそりと 公務員試験を再受験すると決めて

 

勉強していたのね。

 

 

 

そうして やってきた 合格通知。

 

最初の赴任先は 香川県でした。

 

私も もう ついていくしかない…。

 

 

 

私は 大阪の病院を 1年足らずでやめることになり

 

3年は 勤めたかったな と 思いながら…

 

実家暮らしとも お別れして

 

本州を離れました。

 

 

 

強く 強く 自分の中に流れる

 

一緒になりたい 暮らしたい という想いに

 

押し流されて ふたりの生活は 始まりました。

 

 

 

ここにきて ようやく 激流がおさまって

 

穏やかな 凪 の季節に。

 

 

 

 

彼は 家族と一緒に過ごすのが リラックスできるひと。

 

わたしは ひとりになる時間が 必要なひと。

 

 

 

 

そんな違いから けんかも多かったし

 

ちぐはぐだったけれど。

 

 

 

相当に 古い官舎で、

 

今なら 気が滅入ってしまいそうなほどだったけれど。

 

 

 

それでも 穏やかな 楽しい日々。

 

 

 

お仕事も見つかって 私のほうが帰りが遅くなることも多く

 

晩ご飯は 彼が作って待っていてくれた。

 

しあわせって こういうこと?

 

 

 

引き寄せの法則…では

 

考えられない 出会いでした。

 

奇跡としか いいようがなかった。

 

 

 

妊娠がわかってから出産までも

 

本当に 楽しみで

 

心待ちにして。

 

もちろん 不安はあったのだけれど

 

それを上回る 楽しみな気持ちがあって。

 

 

 

 

女の子って わかっていたけれど

 

早く早く早く 会いたい気持ちは 恋に似ていた。

 

 

 

早く と 思うのに

 

彼女は 予定日を一週間過ぎても

 

自分では出てこなかったのね。

 

 

 

 

点滴で 陣痛促進剤を入れてもらっての

 

出産でした。

 

主人も 主人のお母さんも 駆けつけてくれていて。

 

 


 

 

パパにそっくりな女の子で

 

それ以上に パパのパパに似ていて

 

自分の体から おじいちゃんが出てきた‼ と

 

人生最大の衝撃を受けながらも(笑)

 

 

 

本当に かわいかった。

 

髪の毛が多くて 逆毛立って

 

顔中に毛が生えていて どうしようかと思ったけど(笑)

 

本当に かわいかった。

 

 

 

 

こんなに かわいい生き物がいて いいのかしら

 

と思う かわいさだったけれど

 

そんな彼女も 少しずつ 少しずつ 

 

頭角を現すのです(笑)

 

 

 

私と違って

 

頭の回転が速く 敏い子で

 

あっという間に しゃべれるようになり

 

自己主張をし 様々な要求をし

 

 

 

人見知りも激しく

 

私から 少しも離れていられない

 

 

 

瞬間湯沸かし器のように

 

癇癪をおこす 大泣きする…

 

 

 

いつも 「 いいよ 」 という子だった

 

わたしは 

 

 

それこそが 生きる道だ と思い込んでいた私は、

 

 

 

とにかく 彼女を押さえ込むことに 必死でした。。。

 

 

 

なんで そんなに ブルドーザーのように 激しく

 

周囲をなぎたおすように 突き進むのか

 

わたしには わからなかった。

 

 

 

 

 

「 なんで 私の子が こんなにわがまま なんだろう 」

 

 

 

自分をなくせば 調和が保たれると思って

 

なるべく まぁるく おさまるように

 

生きてきた そのツケが

 

怒涛のように押し寄せたのです。

 

 

 

 

そうじゃない 生き方もあるよ

 

言いたいこと言って いいんだよ

 

やりたいことのために ときには

 

周囲をなぎ倒すようであっても 大丈夫だよ

 

 

 

 

そんな メッセージを 伝えてくれていたのですよね。

 

そのときの 私には 全然、わからなかった…。

 

 

 

そうこうするうちに、下の子の妊娠がわかるのです。

浪人生活を経ても やっぱり 希望の大学には入れなくて

 

本当の挫折 を 結局3回 味わうことになります。

 

関西学院大学の学生になったのだけれど

 

もう一回 チャレンジして 失敗だったから…。

 

 

 

心の中は、 「 これでもう 死んでも 許されるだろう 」

 

でしたね。 やっと 今度こそ 死ねるんじゃないか…。

 

 

 

でも 当時つきあっていた 彼から

 

 「 生 」 に ひっぱりあげられて

 

生と 死を 往復する 日々。

 

結局 死ぬことなく ここにいられています。

 

 

 

 

予備校で 未来のだんなさんになるひとに

 

出会ってはいたけれど、付き合っていたのは 別のひと。

 

 

 

学生生活は、授業が全然 つまらなくてモヤモヤしたけれど

 

それでも、発達障害のある子どもが通う施設や

 

精神障害のある大人が通う施設や

 

いろんなところに 毎週行かせてもらえたのはよかった。

 

 

 

カウンセラーになるんだ と 思っていたけれど

 

ゼミの教授から 「 言語聴覚士 」 というお仕事があることを

 

教えてもらって 道が拓ける。

 

 

 
カウンセラーは 当時は 国家資格がなくて

 

なぜだか そのとき 私は 国家資格っていいな って 思ったんだ。

 

 

 

心理学部 の 世界 って やっぱり 私みたいに 病んだひとが多くて

 

セラピスト自身が 相当病んでる って どうなの? って思ったし

 

なんだか しんどくなった。

 

 

 

言語聴覚士 なら 心理学で学んだことも活かしつつ

 

ちゃんと 医学的なことも学んで そうした技術を通して人と関われるって

 

いいな と 思った。

 

 

 

「 このお仕事には 関学に行っていなければ 出会えなかった 」

 

そう思ったら、これまですべて 裏に出続けていると思っていたカードが

 

鮮やかに 表に返っていくのが わかったんだ。

 

 

 

失敗した と 思っても

 

その時すぐにはわからなくても

 

その出来事にはちゃんと 意味があるんだ と 

 

身をもって知った。

 

 

 

希望の光を見出して

 

大学卒業後は 言語聴覚士になるための

 

専門学校に通います(大学院のような位置づけなのね)。

 

 

 

長い学生生活を 許してくれた 親は

 

大変だった と 思う…。

 

 

 

母も、少しずつ 自分のやりたいこと…

 

入院中のこどもたちに関わるボランティア

 

目の見えない方たちに関わるボランティア

 

いろんな活動に 参加していた。

 

 

 

世界の紛争地帯にいる こどもたちにも 思いをかけていて

 

ついに アフガニスタンの小学校に文房具を届けに行く…

 

という活動をされている方の旅に

 

同行することにまでなって。 母の両親には 内緒で、ね。

 

 

 

外の世界に触れる時間が長くなったおかげで

 

お互いの 気持ちの負担は 減っていった。

 

おだやかな日も あったと 思う。

 

 

 

やっぱり しょっちゅう しね とは 言われていて

 

大阪の病院に就職が決まった日にすら

 

なぜか別の話をしていて 「 しね 」 って言われて

 

私の怒りが爆発して、父のいる前で 糾弾したこともあるけれどね。

 

 

 

母も 苦しかったんだ。

 

このころには 大腸がんがみつかって。

 

 

 

大腸をとる 手術をしたのだけれど

 

もう あちこちに 転移していた。

 

 

手術のあとの 放射線治療を 彼女は拒否した。

 

 

なるべく 普通に生活したい、と。

 

 

 

母も ようやく さまざまな活動の中で

 

自分の思想を共有できる仲間と出会えて嬉しい と 話していて

 

そうした集まりに 顔を出し続けていた。

 

 

 

 

けれども しんどさに 耐えきれなくなって

 

ついに 緩和ケア病棟に 入院。

 

 

腫瘍が 脊髄を圧迫していて

 

入院の次の日に 歩けなくなった。

 

 

神経がマヒしたことで

 

さまざまな 痛みから 解放されたようで

 

本人は 気丈だった。

 

 

 

言語聴覚士の合格の通知が届いたときには

 

もう意識がなかった。

 

 

 

私は 大阪の病院でお仕事して

 

母の病院に寄って 家に帰る。

 

そんな 毎日。

 

 

 

死と となり合わせ でありながら

 

わたしは 今のだんなさんになるひとに

 

やはり 「 生 」 のエネルギーを 供給されていた。

 

 

 

 

そう、言語聴覚士の専門学校時代も

 

終わりにさしかかったころから

 

わたしは だんなさんと再び出会いなおして

 

付き合い始めていたんだ。

 

 

 

母の病気もわかっていて

 

勉強しなきゃいけなくて

 

とても そんな余裕はないように思えたけれど

 

 

 

彼との出会いは 私を 激流に ほおりこんでいた。

 

 

 

婚約するよ って 母には 報告できていて

 

「 親友のような男友達は 親友のままとっておきなさい 」

 

と諭されたのは 覚えている。

 

 

 

やっぱり 賛成はしないんだなぁ と

 

もう むしろ 微笑ましかった。

 

 

 

母はね、私に 母親のような愛情を

 

求めていたの。

 

 

 

「 わたしだけ みて 」 って

 

「 どんなわたしも 愛して 」 って

 

私に対してしか できなかったの。

 

 

 

母の母も 激しいひとだったから…。

 

愛情は お金でずいぶん表現していたけれど

 

心の安らぎを与えられるひとでは なかったから…。

 

 

 

そう、母の母だって 大変だったのよね。

 

 

 

連綿と続く かなしみ。

 

 

 

だから、わたしには 結婚願望はもともとは なかった。

 

こどもだって 私には育てられないって 思ってた。

 

 

 

母の母は、母が病棟で いよいよ

 

ごはんが食べられなくなっても

 

自分は ホテルのご飯を食べたいと一歩も引かないようなひとで

 

そんな親だから 母さんはずっと 苦しかったんじゃない!!

 

と 私は 病院で 号泣したこともある。

 

 

 

 

そんな かなしみの 連鎖は

 

本当に わたしで 断ちきらなければ…

 

できる自信はなかったのだけれど

 

そんな心のおもりを ものともせず

 

わたしを 押し流す激流は

 

抗いようもないほど 強かった。

 

 

 

 

だんなさんの実家は 

 

にぎやかで あたたかくて 楽しい団欒があって

 

 

 

わたしにとっては 夢のような 家族で…。

 

 

 

やっと 心安らげる 場所をみつけたんだ。

 

 

 

 

 

 

そんな

 

「 生 」 と 「 死 」を 往復する日々 にも

 

いつか 終わりが きます。

 

 

 

 

母が 息を ひきとりました。

 

私が お仕事のあと、病院にきていて

 

もうお医者さんからのお話があって

 

夜も 病室に泊まって 付き添っていたから

 

「 一度 お風呂に入りに おうちへ帰ったら 」と父に言われて

 

急いで 病室にもどった 

 

 

 

その瞬間から

 

母の息が 激しくなって

 

そして…。

 

 

 

私を 待っていてくれてたんだな と思う。

 

あんたは いつも やること遅いんだから…

 

そんな声が 聞こえてきそう でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

ボイスヒーラー伝授を

 

セッションで受けたい♡とお申込みいただいた

 

ライトワーカーかずちゃんさん。

 

 

 

もともと 癒しのお声だったのだけれど

 

こちらの胸に 直接届くような

 

深みと 落ち着きの増した お声に

 

なっておられました♡

 

 

 

 

そうなのよね、変化してすぐのルンルン気分には

 

しばらくすると 慣れてしまうのだけれど

 

 

 

毎日 じわじわと 積み重なる

 

自分が 自分であることの 心地よさは

 

そのまま 知らず知らず 自信になっていきます。

 

 

 

 

自信ってね、自信をつけようとして行動してるうちは

 

結局 不安でいっぱいなんですよね。

 

 

 

夢中で 無心に 一生懸命過ごしながら

 

私は これでいい って 思える瞬間を

 

ただただ 積み重ねることの中に

 

自然と育まれて いくもの。

 

 

 

かずちゃんにしかできない

 

ライトワークを しっかりそこに根を張って

 

地道に コツコツ 愛を届けておられます。

 

 

 

ごめんね! イベント今日だったんだね~

 

15時ごろまでなのかな? 

 

かずちゃんが 楽になる ほっとできる魔法を

 

用意して下さっているようですよ!!

 

 

 

今日に間に合わないかたは

 

6月1日 2日 にも 

 

あるみたい!! 

 

チェキラー♡

 

いっそげ~

 

 

 

昨日は、無条件の愛の一斉ヒーリング

~ ただここに 在る いのち ~

にご参加いただいたみなさま 

ありがとうございました♪

 

 

心の 奥深くを 感じるような

 

自分という木の 根っこ に

 

力強く 許可を降ろすような

 

時間になったのではないかな と 思います。

 

 

 

夜には 重たさが あったかもしれませんが

 

今朝には すっきり している…

 

そんな感じかもしれませんね。

 

 

 

毎月第4土曜日に開催しています。

 

継続されている方の 歩みの力強さも

 

感じています。

 

 

 

無条件の愛のヒーリングは

数あるワークの中でも

わたしにとっては 大変思い入れのある

ワークなんです。

 

 

その訳は、今連載中のnaokoの物語を読んでいただくと

理解していただけるかもしれませんね。

 

 

次は第5話に入りますが

今日はお休みをいただきたいと思います。

 

 

 

読む方にも 体力がいる かも。。

 

 

 

さわやかの空のしたで

わたしは何をやっているのだろう と

 

ぼんやり 思ったりもしますけれど…。

 

 

 

きのうは運動会だった学校も多かったのかな。

 

わたしも、上の娘の運動会を見に行きました。

 

 

 

なんだか どんどん 大きくなっていて

 

それでも 6年生をみると まぁこんなに 大きくなるのかしら と

 

でも そうなる日は けして 遠くはないのだな 

 

私の 追いつけない所に 羽ばたいて行ってしまうなぁと

 

 

 

初めて 切なさが こみあげてきました。

 

この子は 手を離れるのだという たしかな 予感。

 

 

 

それは、わたしが 自分史を 自分の一部として取り込もうと

 

こうして 書いている作業と 無関係ではない という確信が

 

ありました。

 

 

 

子どもたちは わたしが わたしを受けいれる 過程を

 

無意識に 見守ってくれていたのだと。

 

それまでは 「 お母さん お母さん 」 と私を必要としてくれて

 

つながりを思い出させていて くれていたのだと。

 

 

 

 

子どもって 親が 自分の道を歩けるように

 

本当に 導くために 生まれてきてくれた。

 

表現方法は いろいろで 時にストレートにわかりにくかったとしても

 

全力で 体当たりで 背中を押してくれている。

 

 

 

そのお役目が終わったとき

 

親が 本当の道を歩き始めた時

 

親のほうが 子の手を離れたとき

 

子はやっと 自分の使命に向かっていけるんだなって。

 

 

 

親が 子の自立を 促すように思うけど

 

逆なのかもしれないって。

 

 

 

無意識を通じて 親の状態を察知し

 

呼応する こどもたち。 

 

 

 

その行動のすべては 愛でしか ない。

 

 

 

「 こどもはママのちっちゃな神様 」 を書かれた

 

長南華香さんが おっしゃっていたのは 

 

このことなんだなって 思います。

 

 

 

そんな思いの中で 家に帰って…。

 

暑かったですしね・・・ わたし うたた寝していたら・・・

 

一番疲れているはずの娘がなんと 

 

晩ごはんを つくってくれて…

 

 

 

あんなに あんなに 「 お母さん お母さん 」と

 

手のかかる子 だったのに 何もかも 自分で解決して

 

自分で支度してくれたのでした…。

 

それはそれは 喜びに満ちて お料理する姿に

 

 

 

 

すべては 祝福されている って

 

からだで わかった

 

 

 

そんな 1日でした。

 

 

 

この本は、子育て中のママはもちろん

 

ママから生まれた すべてのひとたちに おすすめです。

 

 

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華香さんの親子セラピスト講座もおすすめですよ~ドキドキ

 

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それでも まだ

 

小学校までは、ね

 

小さなピアノ教室

 

小さな塾

 

小さな世界の中で 自分を保っていられた。

 

 

 

ピアノも勉強も それなりに できる

 

って 思えていた。

 

 

 

けれど まかり間違って

 

私は 京都の 

 

共学の私立中学に合格してしまったんだ。

 

 

 

 

それが 静かなる 挫折・・・?

 

 

 

そう。 そこは これまでのようにはいかない

 

すごいひとたちの集まりだったのね。

 

 

 

入試のあと、自分の点数を知ることができたのだけど

 

合格点をわずかに2点だけ上回る点数で 私は通っていた。

 

 

もしかしたら 両親が D大出身だったから

 

下駄を履かせてくれたのかもしれない。

 

 

 

そこには、「 私は男だったら洛星に行きたかった 」

 

と言うような 優秀な女の子がうじゃうじゃ いた。

 

 

男の子は 洛星に行けなくて 来た… というひともいるから

 

挫折して D中に来た子もいたけれど

 

それでも当然 私より ずっと 賢かった。

 

 

 

みんな きれいな顔で おしゃべりも面白くて 

 

おしゃれで(私服の学校だからね) スタイルもよくて

 

勉強ができて スポーツもできて

 

当然ながら そんな子たちは ピアノだって 

 

私より ずっと上手だった。

 

 

 

勉強はどんどん わからなくなり

 

いつもクラスの最下位。

 

 

 

クラス替えのたびに

 

いつも1番2番を取る子と セットのように また

 

同じクラスになった。 

 

各クラスの平均点を一定にするために。

 

 

 

そう、奮起すれば よかったの。

 

負けん気出して がんばればよかったの。

 

 

 

でも わたしは 家に帰れば なおさら

 

叱られる要素が増え

 

やっぱり しね と 言われ続けていて

 

全然 生きていていいって思えなかった。

 

 

 

ひとってね

 

がんばるには 「 自分は努力するに値する人間だ 」 って

 

思えていないと がんばる気力すら 湧かないものなのね。

 

 

 

謝る も そう。

 

自分は 誤りを認めても ちゃんと愛されてるって

 

確信が 根っこになければ

 

謝る ということは ほとんど 死に等しいのです。

 

 

 

 

賢い ひとたち  豊かな 恵まれた ひとたち だったから

 

いじめられたり は しなかった (ムシする とか そんなぐらいで)。

 

 

勉強以外のところで お友達と 楽しい時間も過ごせた。

 

 

でも 周りの いいところ = 自分にないもの ばかり

 

目について どうしたら 賢くなれるのか

 

どうしたら 面白く話せるのか

 

どうしたら かわいくなれるのか

 

どうしたら 胸が大きくなるのか(笑)

 

 

 

欠けた ところを 埋めよう うめよう として

 

答えを求めて 本屋さんに 入り浸った。

 

 

 

家に帰る時間も それで遅らせることができた。

 

 

 

阪神淡路大震災の 前には 

 

学校に近い 滋賀県に引っ越していて

 

大きな被害はまぬがれた。

 

 

 

家族には 「 直ちゃんのおかげで 助かった 」

 

と言われたけれど それもなんだか 後ろめたかったのね。

 

 

 

小説の中に 現実逃避 した。

 

よせばいいのに 中3になって 好きな人ができて

 

付き合うことになった。

 

 

 

もちろん、母は 大反対。

 

成績わるいのに うつつをぬかしてる。

 

あんたは そんなことする 資格ない。

 

勉強しなさい。

 

 

 

ごもっともなんだけれど

 

恋の力も 小説の魔力も

 

それを 上回っていた。

 

学校の勉強には 興味がもてなかった。

 

 

 

彼には 一生懸命 手紙を書いて

 

思いを伝えていた と 思う。

 

しゃべるのは やっぱり 苦手だった。

 

 

 

1年ほど つきあっていたけれど

 

彼のバスケ部の試合にも見に行けない

 

手をつなぐのも やっと な

 

不自由な恋には 結局疲れ果てて

 

自分から 終止符を打った。

 

 

 

勉強もできないし 華もないのに

 

なんで 私と付き合ってくれたのか 

 

今も謎だなぁと思う。

 

 

周りも 謎だったのだろう

 

付き合う とかすると 変な目立ち方をしてしまって

 

浮いていた。

 

 

中高一貫だけれど

 

高校は 中学大学から 離れたところにあって

 

なんだか 覇気がなかった。

 

 

部活も よほどやりたいひとしか 残らないので

 

帰宅部が増えた。

 

 

わたしも、もちろん帰宅部だったけれど

 

本屋さんに 寄り道する日々は続いていた。

 

 

 

あ、、 思い出してしまった。。

 

そうだった。わたし、万引き、しょっちゅう してました。

 

お金がないわけじゃないのに、、

 

 

さみしかった 気付いてほしかった

 

私なりの SOSだったのだけれど

 

表に出ることはなかった。 あまりに出ないので

 

やらなくなった。

 

 

 

高齢者の万引きがやめられない とかも
 
わたしには わかる。
 
親を殺しちゃった とかも
 
わたしには わかる。

 

 

 

 

 

 

無気力で 死にたくて でも死ぬことはできなくて

 

憂鬱で ただただ消えてしまいたかった

 

眠りにつくたびに 朝がこなければいいのにと思い

 

朝が来ては 絶望していた。

 

 

 

大好きだった ピアノも 小6になるときに

 

受験のためにやめてから もう通うことはなかった。

 

好きだったから家で弾いてはいたけれど どんどん自己流になって

 

人に聴かせられるものではなかった。

 

 

 

 

吉本ばななさん には 本当に助けてもらった。

 

キッチン 白河夜船 アムリタ THUGUMI・・・

 

 

 

ばななさんの エッセイ集にあった Q&Aの中に

 

「 人を殺すとしたら どんな手段で? 」 みたいな

 

とんでもない質問があって

 

「 呪い殺す 」 と書いてあったのね。

 

 

 

 

わたしは、わたしも、それができる気がした。

 

(ばななさんの紹介がここだけなんてひどすぎる…ごめんなさい。。

「つらいことがあったら、元を取りなさい」って書いてくれてた、

ばななさんの言葉に支えられてここまで生きてこれたんです。。

ありがとうございます)

 

 

 

自分の子どもに しね と言い続けるひとなんて

 

自分がしんだらいいやん と 思った。

 

 

 

母と わかりあえなくて

 

好きなことを 奪う存在でしかなくて

 

わたしは自由になりたかった。

 

 

 

言い合いをして 泣きながら 自室に戻って

 

涙をふいて 山になったティッシュが

 

わら人形に見えてきて 

 

わたしは その真ん中に 釘を刺したんだ。

 

 

 

10年後に 本当に 母が 病で倒れるなんて

 

思ってなかったけれど…。

 

 

 

母は ベジタリアンで 添加物も極力抜いて

 

食べ物の管理は ものすごくしてたひとなのに

 

 

 

なぜか 一番縁遠そうな 大腸がんだった。

 

 

 

54歳で亡くなったのは やっぱり 早い と 思う。

 

私は 本当に 呪い殺してしまったのかもしれない。

 

 

 

 

 

わたしが 塀の向こう側に いないことのほうが

 

不思議。

 

 

 

紙一重のところを 生きていた。

 

 

 

 

 

今から思えば 

 

母は 母で わたしから自由を奪われていた。

 

ほんとは 絵本をかくひとになりたかったんじゃないかな。

 

手のかかるわたしが 生まれて 働くことは諦めたのだと 話していた。

 

私の下に兄弟をつくることもやめて 全身全霊で私を育てる と 決めて。

 

 

 

ちゃんと 愛してくれてるのは 知っていた。彼女なりに。

 

だから 生きてこれたのも 頭ではわかってる…。

 

 

 

でも だからこそ 知りたかった

 

なぜ 愛する娘に しね と 言えるのか。

 

( 理解すれば 楽になれると 思っていたのね )

 

 

 

わたしは 心理学を学ぼうと思った。

 

それ以外には いっさい 興味がもてなかった。

 

 

D大の心理学部は、実験心理学としか書かれていなくて

 

わたしは モルモットじゃなく 人間の心そのものしか 

 

扱いたくなかった。

 

 

 

 

わたしは D大にそのまま エレベーターで上がるのはやめにした。

(成績がわるいから、学部を選べる立場にはなかったというのが正解)

 

恵まれたひとばかりに 囲まれているのにもあきた。

 

 

国立に憧れて でも やっぱり根底では無気力で

 

劣等感にまみれたまま ずるずると浪人生活に入るのです。

 

 

 

 

 

その予備校で 未来のだんなさんになるひとと 出会うなんて…

 

思いもしなかったのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

親の世代って

 

お仕事の募集要項に 女性の場合 条件に 

 

「 容姿端麗 」 などと書かれていた時代です。

 

 

 

母は、フェミニズムに傾倒したり バリバリの左だったり

 

学生闘争の思想に染まっていたり なかなか激しいひとだったので

 

 

 

もちろん、そんな社会のことは 蹴とばしたい気持ちだったのだろうけど、

 

 

 

自分の娘が 顔に不具合がある…となると 

 

いじめられないだろうか

 

ちゃんと 生きていけるだろうか

 

いろいろ 心配してくれていました。

 

 

 

 

そして、おつむが良くなくては と

 

聡明なひと になってもらわなくては と

 

いろいろ 厳しい 親だった と 思います。

 

 

 

 

母の母も、教育熱心だったのですね。

 

金銭的にも 母に注ぎ込み

 

孫の私にも 注ぎ込み (ひ孫にまでT大を目指しなさいと言い(笑)(笑))

 

ちょっと お金にものをいわせるところがあったし

 

母は 「 いつも申し訳ありません、過分にしていただいて… 」 と受け取っていたので

 

私も 心の底から申し訳なく 受け取れない気持ちで

 

 

 

それでも 「 本代は惜しむな 」 という教えのもと

 

たくさんの本を読ませてもらえる環境でした。

 

 

 

本は 大好き。

 

でも 人間関係を安定して築くのは 苦手でした。

 

 

 

話すのも苦手。

 

頭の回転が遅いから、どうしたらおこられないでしゃべれるか

 

一生懸命考えて、わざとごにょごにょしゃべって 「 もう一度言って! 」

 

って言われる時間を必死で稼いで 考え直してからしゃべる。

 

 

 

学校から帰ると まず ピアノの練習。

 

ピアノは大好きだったし 自分の表現の手段だったし

 

ピアノとはお話もできると思っていて

 

思いの丈を ぶつけていました。

 

2時間でも3時間でも 弾いていられた。

 

 

 

 

晩ごはんのときには 「 学校であったことを報告しなさい 」 って言われて

 

一時間目から順番に 何を習ったか 言っていくんです。

 

 

お友達とどんなことがあったか どんな気持ちになったのか

 

さしはさむ余地はなかった。

 

 

 

忘れ物が多かったし、状況判断がまずくて

 

本当によく 叱られました。

 

「 自己嫌悪が 足りない!! 自己批判しなさい!! 」

 

 

 

この辺の用語は たぶん 学園闘争の名残だと思うのだけれど

 

言われなくても もう 自分のことは 大嫌いだったし

 

数え上げたらきりがないくらい 自分にはわるいところがあって

 

よく 知っているつもりだけれど 全然 変われなかった。

 

どうしたらいいのか なすすべがなかった。

 

 

 

 

そのころ たしか 「 家なき子 」が流行っていて

 

テレビはほとんどみせてもらえなかったから 内容はよく知らないのだけれど

 

安達祐実さんが 「 自分のことが 大好き 」 って言ってはるのをみて

 

母と私は 「 何言ってるの、よく言うよ 」 なんて せせら笑っていたんだ。

 

 

 

なんか化粧品のCMにも 「 私には その価値があるから 」 って

 

キャッチコピーがあって、それにも 母子で 「 よくそんなことが言えるねぇ 」

 

なんて いってました。 もうやだなーほんと、やだ(笑)

 

 

 

 

「 バカはしななきゃ なおらない 」

 

が 口癖になっていた、母。

 

 

 

いつの日にか、 それが 「 しね!! 」 になりました。

 

小3のころ だったかな。

 

 

 

毎日 叱られていたから

 

毎日 「 しね!! 」 と言われて

 

 

 

しょっちゅう 目を泣きはらして 学校に行ってた。 

 

おいわさんみたいって お友達にいわれて

 

おばけのまねをしてごまかしてた。

 

 

 

学校は 別に 好きってわけじゃないけれど

 

家が地獄だったから 溺れた人が呼吸をしに水から上がるように

 

学校に通った。

 

 

 

叱られると 何時間も 土下座だった。

 

 

もう 何を叱られてるのか わからなかった。

 

 

わかるのは 「 生きていないほうが いいのに 生きてる 」 ってことだけ。

 

絶望していた。

 

 

 

 

父は 基本的に 仕事だったし

 

父がいると 母はひどいことにはならなくて

 

ひとりっこだったわたしは

 

ひとり 闇を抱えた。

 

 

 

お外では 控えめでやさしい母。

 

私が何を話したところで 誰にもわかってはもらえない。

 

 

 

せめて なぐられたり していたら

 

あとが のこるなら

 

わかってもらえるかもしれないのに…。

 

 

 

 

本当に、小学生のころ 

 

わたしの 世界に ひとは いなかった。

 

ピアノに逃げ、本の世界に逃げ込んだ。

 

 

 

皮膚病にも 悩まされ

 

お薬を塗っても 塗った場所はきれいになっても

 

必ず別の場所に出る。

 

 

 

尋常性乾癬。 今も 確たる治療法は

 

西洋医学には ないと思う。

 

 

 

原因は 子どものわたしにも わかる気がした。

 

それが お薬では 治らないことも。

 

 

 

 

 

 

 

(1日1話にしようと思ってたんですけど、

書いた勢いで載せないと心が折れそうなので

今日は続けざまだけれど、ご容赦下さいね。

1話はうまれる ~naokoの物語~

2話は最初の記憶

より読んでいただけます)

自分自身のもっている 最初の記憶を探っても

 

どれが本当に最初なのか 時系列はわからないけれど

 

 

 

幼稚園の年少さんのお遊戯会だったかな。

 

 

 

キリスト教系の幼稚園だったから

 

イエス様がお生まれになる みたいな

 

天使がいて 羊飼いがいて… のような配役で。

 

 

 

わたしは天使の役に決まっていたんですね。

 

 

 

でも園が終わって 母と呼び出されたんです。

 

 

 

「 どうしても羊飼い役になった子が 天使になりたいって言ってるんだけど

 

直子ちゃん 代わってもらえない? 」

 

 

 

そんなお話でした。

 

なんか、30年以上前の話としても ちょっと「?」な感じ(笑)

 

 

 

 

でも、わたし、 「 いいよ 」 って即答してました。

 

 

これね、よくできたいいこ みたいだけど、全然!!

 

 

 

「 そんな しょうもないことにこだわる子がいるなんて… 

 

ここで いいよ って言えるほうが すごいのに 」

 

そんな気持ちでした。

 

 

 

そして その場に出されていたポッキーを、ね

 

袋から出して 食べようとして

 

チョコレートの側からあけてしまって 手が汚れて

 

お母さんにおこられる っていう

 

 

 

なんか そんな よく考えたら 踏んだり蹴ったりな(笑)思い出。

 

 

 

ホロスコープの、太陽も月も水星も やぎ座って

 

もしかしたら そんな感じ、あるのかもしれません。

 

 

 

「 大人から見て ちゃんと していること 」 という視点…。

 

 

 

願いを 封印する 歴史の始まりです。

 

 

 

 

 

他にも。

 

口唇裂の手術って 顔の成長にあわせて

 

生後3か月と3歳と15歳くらいでする…という流れがあるんですね。

 

傷口が 顔が大きくなるのについていけなくなるから。

 

 

 

だから 2回目の手術の時の入院だったと思うんだけど、

 

病室にお母さんといて 

 

お母さんが先生のお話を聞きにいかなくちゃいけない というときに

 

「 ひとりで待っていられる? 」 と聞かれ

 

もちろん、 「 いいよ 」 って答えました。

 

 

 

それで 母が泣いて褒めてくれたんだと思う。

 

 

 

 

「 いいよ 」 って言える わたし。

 

大人でしょ? みたいな。 そんなことを学習して。

 

 

 

子どもらしくない こども!!

 

 

 

 

あぁ・・子どもらしくないで さらに思い出した・・・

 

 

 

 

お店でね、おばあちゃんが お土産に何か買ってくれようとして

 

「 うちのタマ知りませんか? 」 っていうキャラクターのメモ帳を見ていてね、

 

タマが好きだったのに、 そして人気だったから

 

残り少なかったんですね。 となりのポチはたくさん売れ残っていた。

 

 

 

 

わたしね、そこで やっぱり  ポチ を 選ぶんです。

 

「 ポチが好きだから 」 と言い張って。

 

でもあとになって 「 ほんとうはタマがほしかったけど、お店の人がタマが減ると困ると思って

 

ポチにしたの。ポチもかわいそうだったし。 」 と母に白状して。

 

褒められる! って思ってたんでしょうね。

 

「 なんでほしいものを言わないの!! 」 っておこられちゃったわけなんだけど…。

 

 

 

 

 

へんな子ども!! かわいくない~(笑)

 

 

そりゃー 買ってあげるほうからしたら、素直に「これほしい!!」って言って

 

買ってもらって ニコニコしてるほうが どれだけ嬉しかったか…。

 

 

 

 

肝心なところは 抜けてるので

 

あほなことはいっぱい やってるはずなんだけど

 

 

 

思い出せるのは そんな記憶ばかり。

 

 

 

幼稚園時代… といえば もうひとつ、

 

「 男の子にならなくっちゃ!! 」 って思った事件がありました。

 

 

 

お母さんからね、 「 生まれる前は 本当は男の子がほしかったの。

 

生まれてからは 女の子でよかった と思ってるけど 」 って

 

言われたの。

 

 

 

ちゃんと、「 生まれてからは 女の子でよかった 」 って言ってくれてるんです。

 

今でも覚えてるんだから。

 

 

 

でも わたし、わざわざ 「 お母さんは 男の子がほしかった!! 」 というところだけ

 

クローズアップしたんですね。 

 

悲劇のヒロインの始まり始まり…(笑)

 

 

 

 

必死でした。。

 

自分のこと 「 ぼくちゃん 」 って呼んだり。

 

男の子のトイレでおしっこしようとしたり。

 

力の強いところを見せようとしてみたり。

 

男の子とばっかり 遊んで。

 

 

男の子とばっかり 遊ぶ は 小学生のころまで 続きました。

 

「 女って めんどくせー 」 みたいな(笑)

 

 

 

 

・・・。

 

 

 

あんたが 一番 めんどくせーよ!! 

 

と みなさま

 

ちっちゃいときから わざわざこじらせてんじゃねーよ!! と みなさま

 

ツッコんでやって 下さいませね♪

 

 

 

 

まだね、幼稚園時代は それでも

 

いっぱいおこられては いたけど

 

おかーさんも おとーさんも だーいすき って

 

感じだった と 思うのです。

 

 

 

 

でも 母の苦悩は 深かったのですね。

 

わたしがいることで

 

自分自身のずっと抱えてきた闇と 

 

向き合うことにもなったのだと思う。

 

 

 

小学校に上がるとき

 

吉祥寺から 芦屋に引っ越しました。

 

 

 

このあたりから

 

暗黒時代に 入っていきます…。

 

 

 

 


きのうセッションを受けて下さった方が

思いがけないスピードで

ブログに想いをつづって下さって…。


本当に言葉のひとつひとつ

大切に紡いで下さったのがわかって


じんわりじんわり涙がこみあげました。



ちょうどきのうから私は自分史を書きはじめて

これから  天使などではない  ドロドロを

出さなくちゃならないのですけれど、、(笑)




美しい絵とともに

表現力に  吸い込まれそうな世界観があって

素敵だなぁと  癒されながら

ご縁に  遥かなつながりを感じながら



生きてきて  よかったな  と

思いました。




セッションでは

伝えたいものをたくさんもっておられるのが
つたわってきて

それ以上にたくさん  言えなくしているものがかぶさっているのもわかりました。


でもそれが濾過装置のような役割をしていて

ゆっくりと汲み上げて  出てきたときには

本当に大切なことだけ  そっと差し出される…



ひとことに  心地のよい重みがあって

それは  物静かな長老のひとことのような…





わたしも  言葉の生み方について

「たくさんたくさん言葉を費やすことよりも大切なこと」を

教えていただいたようなセッションでした。



ボイスヒーラーの伝授によって

より  深い響きに   より  聴く者に届く声に

なっていらっしゃいましたね。



もう   言葉になどならない

つかれはてて  臥せっておられるような方の

お側にいることのできる方なのだな

これから  そんな活動をされていくのだな




そんなことを  感じました。




ここから  応援させていただきますね。
 



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