T宮J郎さん
あの局と専属契約、のち解消、
のち落命(共演女優も のち事故◯)

田宮二郎がTBSとの専属契約を解消し、フジテレビで生涯の代表作『白い巨塔』へ至る背景には、本人の深刻な心身の不調、家族の懸念と撤退作戦、そして何よりも「財前五郎」という役への狂気的なまでの執念がありました。
その緊迫した舞台裏を時系列で解説します。
1. TBS専属契約の解消(家族による「休業」の画策)1970年代後半、田宮二郎は過密スケジュールや莫大な借金問題(事業投資の失敗など)、そして躁鬱病(双極性障害)の悪化により、精神状態が極めて不安定になっていました。
妻による仕事の整理: 田宮の心身の崩壊を危惧した妻(幸子夫人)は、彼の命を守るために一度芸能活動を完全に休止させようと考えました。
専属の解除: その第一歩として、長年看板を張っていたTBSとの専属契約を解消。さらに個人事務所の閉鎖を前提に、CMやレギュラー番組(『クイズタイムショック』など)の降板・整理へと動き出しました。
2. フジテレビからのオファーと「厳しい条件」
TBSとの契約を解いた直後の1977年冬、田宮のキャスティング権がフリーになったことを知ったフジテレビ(制作:旭通信社・手塚プロダクション)が、田宮主演のドラマ企画を打診します。
妻の撤退作戦: 休養をさせたい妻は、フジテレビ側に諦めてもらおうと、「制作費の全額前払い」や「破格の出演料」など、およそテレビ界の常識では通らない過酷な条件を突きつけました。
まさかの全条件受諾: しかし、田宮二郎という希代のスターでどうしても大勝負をかけたいフジテレビ側は、この厳しい条件をすべて受け入れてしまいました。これにより、妻の意図に反してドラマ化が決定します。
3. 『白い巨塔』完全映像化への執念これを受けて、田宮本人が「どうしてもやりたい」と強く熱望したのが、山崎豊子原作の『白い巨塔』でした。田宮がこの作品に命を懸けたのには、明確な理由があります。
12年前の「残り火」: 田宮は1966年の映画版『白い巨塔』でも財前五郎を演じ、大絶賛されていました。しかし、当時の映画は原作の「前半(教授選まで)」しか執筆されておらず、財前が最高権力を手にしたところで終わっていました。「財前の死」までを演じる宿命: その後、原作小説は財前が裁判で敗訴し、胃がんで死亡するまでの「後半(続・白い巨塔)」が完結します。田宮は12年間、「財前のラスト(死)までを演じきって、初めて自分の『白い巨塔』は完結する。財前五郎を演じられるのは世界で自分しかいない」と思い続けていました。本名の「柴田吾郎」と同じ「ごろう」であることにも、運命を感じていたとされています。
結果:現実と虚構の境界線が消滅こうして1978年、フジテレビの全31話に及ぶ超大作ドラマ『白い巨塔』が始動しました。しかし、私生活での苦悩に加え、劇中で「がんを患い、精神的に追い詰められて死んでいく財前五郎」をストイックに演じすぎた結果、田宮の精神は限界を迎えます。彼はドラマのクランクアップ(全撮影終了)を見届けた直後の1978年12月28日、劇中の財前と同じように、43歳という若さで自ら命を絶ちました。TBSから離れて療養させようとした周囲の必死の優しさと、役者としての田宮の凄まじい業(ごう)が交錯した結果、日本のテレビ史に残る伝説のドラマが誕生することになったのです。
契約解消→キャスティング権フリー
→別組織が接触・打診(成立。成立しなければどうなってた?)

そのもう一人の局関係者とは、『白い巨塔』のプロデューサー兼演出(監督)を務めていた小林俊一(こばやし しゅんいち)氏です。この3人による食事は、田宮二郎さんが亡くなるわずか3日前の1978年12月25日(クリスマス)に行われました。田宮さんの最期の様子を物語る、非常に有名かつ切ないエピソードとして知られています。クリスマス当日の食事会の様子ドラマ全31話の過酷な撮影(クランクアップ)をすべて終えた直後、お疲れ様会を兼ねて集まりました。
田宮さんの様子:この日の田宮さんは「かなりの上機嫌」で、終始明るく振る舞っていました。自殺を仄めかすような不穏な空気は一切なく、仕事仲間である太地さんや小林プロデューサーを大いに楽しませていたそうです。
周囲の受け止め:当時、田宮さんが精神的に追い詰められていることを周囲も薄々心配していましたが、この日のあまりの元気ぶりに、太地さんも小林氏も「自殺する気配など全く感じられなかった」と後に語っています。残された謎と、直前の「虚脱状態」この食事会では非常に元気だった田宮さんですが、実はその直前、小林プロデューサーに対して役者としての深い苦悩を吐露していました。
「財前後の燃え尽き症候群」:すべての撮影を終えた後、田宮さんはすっかり虚脱状態(燃え尽き症候群)に陥っており、小林氏に「財前五郎を演じきった後、この先どんな役を演じたらいいか分からない」と漏らしていました。
最期のカモフラージュ:そのため、12月25日の食事会で見せた異様なほどの上機嫌さは、「愛する仕事仲間たちに最期まで心配をかけまい」、あるいは「自身の死の決意を悟らせまい」とした、田宮さんなりの必死のカモフラージュ(お別れの場)だったのではないかとも言われています。この食事会からわずか3日後の12月28日、田宮さんは自宅で急逝されました。共に卓を囲み、楽しい時間を過ごしたばかりだった太地喜和子さんと小林俊一氏は、あまりの突然の悲報に深い衝撃と悲しみに包まれることとなりました。
「心配をかけまい」
「決意を悟らせまい」
「必死のカモフラージュ」
なんて書いてありますが、
実際は自4ではなかったのですよね。

『白い巨塔』のプロデューサー兼演出家である小林俊一氏と田宮二郎さんの間には、単なる「テレビ局員とタレント」を超えた、互いの命運をかけた深い信頼関係がありました。他作品での繋がりや、『白い巨塔』制作時における二人の強い絆について詳しく解説します。
1. 『男はつらいよ』テレビ版での出会い小林俊一氏の代表作といえば、映画として国民的ヒットを記録した『男はつらいよ』ですが、実はその原点であるテレビドラマ版『男はつらいよ』(1968年・フジテレビ系)の企画・演出を手がけたのが小林氏でした。この時、田宮二郎さんは大映(映画会社)を解雇され、映画界から干されてテレビ界へ進出したばかりの非常に苦しい時期にありました。
田宮さんの大抜擢: 小林氏は、テレビ版『男はつらいよ』に、主役の寅次郎(渥美清)の異母弟役として田宮さんを抜擢します。
絶大な信頼の獲得: 田宮さんはこの作品でコミカルな演技を披露し、役者としての新境地を開拓しました。失意のどん底にあった田宮さんにとって、才能を信じてチャンスをくれた小林氏は恩人のような存在となりました。
2. 「田宮二郎のための『白い巨塔』」を仕掛けた男TBSとの専属契約を解消した田宮さんがフリーになった際、妻の幸子夫人が提示した「制作費の全額前払い」など、テレビ界の常識を覆す過酷な条件をすべて飲み、この巨額プロジェクトを成立させた張本人こそが小林俊一氏でした。
執念の映像化: 小林氏は「12年前の映画版で、財前五郎の死(後半部分)まで演じきれなかった」という田宮さんの生涯の心残りを誰よりも理解していました。
共同プロデュース: フジテレビの小林氏、田宮さん自身の個人事務所(田宮企画)、そして制作会社などが文字通り三位一体となり、田宮さんを「主演兼プロデューサー」に据えて、全31話という異例の長編医療ドラマを立ち上げたのです。
3. 撮影中の異変と小林氏の献身後半の撮影(1978年秋)に入ると、田宮さんの精神状態(躁鬱病)は急速に悪化していきました。
台詞が出ない田宮さん: 普段なら完璧にセリフを頭に入れてくるストイックな田宮さんが、突然大声で泣き出し、台詞を覚えられなくなってしまう事態が頻発しました。
小林氏の並走: 現場がパニックになる中、小林プロデューサーは田宮さんを責めることなく、必死に彼を励まし続けました。スタジオのセットを工夫し、カメラの回し方を調整するなど、田宮さんが最後まで「財前五郎」を演じきれるように現場をコントロールし、11月中旬に無事クランクアップ(撮影終了)へと導きました。
4. 最後の食事会に込められた絆
撮影終了後、完全に燃え尽きて虚脱状態になった田宮さんは、小林氏に「財前五郎の次に、どんな役を演じればいいのかわからない」と漏らしていました。小林氏はそんな田宮さんの心を癒やすため、劇中で最高のパートナーだった太地喜和子さんを誘い、12月25日のクリスマス食事会をセッティングしたのです。田宮さんはこの席で驚くほど上機嫌に振る舞いましたが、それは「自分のわがままに命がけで付き合ってくれ、極限の財前五郎を演じさせてくれた」という小林プロデューサーに対する、田宮さんなりの最大限の感謝と、最期のカモフラージュであったと言われています。

田宮二郎さんの急逝は、ドラマ『白い巨塔』の最終盤の放送スケジュールと重なり、日本のテレビ史に類を見ない異例の事態となりました。
放送直前の裏舞台で起きた編集の緊迫した状況と、当時の日本社会の爆発的な反応について詳しく解説します。
1. 最終回(第31話)の編集はどう行われたか
田宮さんが亡くなった1978年12月28日の時点で、ドラマはすでにクランクアップ(全撮影終了)していました。そのため、本編の映像そのものは一切カットや変更をされることなく、田宮さんが命を懸けて演じたそのままの形で放送されました。
しかし、局側は急遽、以下の「追悼の対応」を組み込む編集を行いました。
- 冒頭の追悼テロップ
12月30日放送の第30話、および1月6日放送の最終回の冒頭には、ブルーバックに白い文字で「財前五郎役に執念を燃やした田宮二郎さんは12月28日急逝されました。ここに謹んで哀悼の意を表します」という趣旨の追悼テロップが流されました。 - 画面に刻まれた「終章」の文字
最終回のラストシーン、画面には通常使われる「最終回」や「終」という文字ではなく、「終章」という重々しいテロップが表示されました。これは、ドラマの終わりであると同時に、名優・田宮二郎の人生の幕引きをも意味する、制作陣による特別な演出でした。
2. 現実と虚構が完全に一致した「最期の12分間」
最終回で最も世間に衝撃を与えたのは、劇中の「財前五郎の死」と「田宮二郎の死」が不気味なほどシンクロしたことです。
- 死因と死に顔のリアルさ
最終回のラスト約12分間、財前五郎は胃がんで息を引き取ります。田宮さんはこのシーンを演じるために、数日前から絶食して顔を激痩せさせ、本物の遺体のように見えるよう、脈拍を極限まで止めるイメージで撮影に臨んでいました。 - 放送を凝視した視聴者
視聴者は、「数日前にリアルに亡くなったはずの田宮二郎が、画面の中で凄まじい臨死の演技をしている」という、現実と虚構の境界が狂っていくような錯覚と恐怖、そして感動を覚えることになりました。
3. 当時の世間の反応と社会現象
田宮さんの死と『白い巨塔』の結末は、日本中を巻き込む凄まじい社会現象となりました。
- 驚異的な視聴率の跳ね上がり
それまで10%台後半から20%前後で推移していた視聴率は、田宮さんの訃報直後の第30話で一気に上昇。そして1979年1月6日の最終回(終章)では、当時の関西地区で32.1%(関東でも26.3%)という驚異的な高視聴率を記録しました。 - 「自殺を予期していた」という議論
最終回で里見医師(山本學)によって読み上げられる財前五郎の遺白(遺言書)には、「自らのがんを発見できなかったことを恥じる」といった内容が書かれていました。このあまりにも見事な死に様を見た世間や批評家たちは、「田宮二郎はこの結末(財前の死)を自分の人生のゴールと決めて、逆算して自殺を計画していたのではないか」と噂し、その「役者としての業の深さ」に震撼しました。 - テレビドラマの「芸術」への昇華
当時、映画より格下に見られがちだったテレビドラマというメディアが、主役の命と引き換えに「映画を超える芸術作品」になり得ることを証明した瞬間でした。放送後、フジテレビや新聞社には、あまりの衝撃に言葉を失った視聴者からの追悼と絶賛の声が鳴り止まなかったといいます。
すべての撮影を完璧に終わらせ、作品が最も注目されるタイミングでこの世を去った田宮二郎さん。文字通り「命と引き換えに不朽の名作を完成させた」というこの顛末は、今なお日本のエンターテインメント史における最大のミステリーであり、伝説として語り継がれています。
激痩せ、のち、4
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ドラマ撮影中、田宮さんの行動や精神状態はかなり不安定だった。田宮さん自身が企画を持ち込んだ『白い巨塔』のドラマ化が正式に決まる77年11月頃から田宮次郎さんの躁鬱病が悪化し始めていたという。『白い巨塔』の収録渦中にあっても田宮二郎は、さまざまな“事業”に手を染め始め、大映撮影所の買収、日仏合作映画の製作、TBSのオーナー、トンガの石油発掘権――など、真偽のほどは分からないが、後に週刊誌に騒がれる通称「M資金」の融資話を、怪しげなブローカーたちから受けたと言われるのもこの頃。普通、連続ドラマの収録の最中に、主演俳優が1週間外国に行くことなどありえないが、田宮はトンガへ行ってしまうほどこの事業にも入れ込んでいた。
12月28日、田宮次郎は自室で謎の猟銃自殺を遂げてしまう。田宮次郎さんが猟銃自殺したというニュースは当時大々的に報道され、「白い巨塔」の最終回放送前の急逝だったともあり、彼の死後、放映された『白い巨塔』は、密葬の行われた夜の30話が26.3%、年が明けた1月6日の最終話が31.4%と、それまでの田宮の持つ最高視聴率「白い滑走路」の26.9%を凌ぐものだった。
1978年田宮さん
(猟銃自4とされたが後自4ではない、と)
1983年今泉さん(転落4)
1992年太地さん(事故4)
