最近Wikipediaとかの記事を読むのにハマっている。

キャバレーとは何か? から始まって、風俗店の歴史、戦時の疎開の種類、国民学校、中学校、学費無償化制度、盲学校、点字、点字ディスプレイ、形状記憶合金、人工筋肉、ロボット、ドラえもん、相棒、科捜研の女……といった具合で、気になったらどんどん見てしまうので、なかなか全部読み切れていない。


安倍晋三銃撃事件の記事を読んでいたら「蘇生措置拒否」が出てきて、祖母が亡くなった時のことを思い出した。


冬のある日、朝の7時台だったと思う。
私は爆睡していたのだが、血相を変えた伯父に叩き起された。(伯父は極度のポーカーフェイスだから相当である)
祖母がトイレに座ったまま意識を失ったと言うのだ。


伯父の話では、トイレに行きたいと言う祖母を介助して便座に座らせ、一旦その場を離れた直後、緊急コールが鳴った。(我が家は高齢の祖母のためにリフォーム時に緊急コールを設置していた)
驚いた伯父がトイレに向かうと、こちらに向かって手を伸ばしていた祖母が、直後意識を失ったと言う。


私は信じられなくて、祖母に駆け寄り「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼び掛けながら肩を揺すったが、祖母は反応しなかった。


間もなく家に救急隊が到着したが、その時点で心肺停止していた祖母は、蘇生処置を受けながら救急車でかかりつけの大学病院まで運ばれた。
救急隊の人に手を握ったりさすったりしてあげてくださいと言われて握ったのを覚えている。


到着後、祖母は救急室みたいなところに運び込まれて行った。
私と伯父は何故か入れてもらえなくて、救急外来の受付近くのベンチに座って2人で暫く待っていたら、やがて救急隊員の人がやって来た。
息を吹き返したか、と僅かに希望を持ったが、それは蘇生をやめても良いか聞きに来たのだった。


医者である伯父は察したのかそれを了承した。
私はそんな、やめないで、やめたら死んでしまう、と思ったけど頭では分かっていたから口には出せなかった。


ほどなくしてかかりつけ医の代理の先生と看護師が現れた。
祖母の現状を明言せず淡々と今後の手続きについて伯父に説明する先生に、私は「死んだんですか」と問うた。
残念ながら、というような答えだったと思う。
何も言えなくて、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
看護師が寄り添ってくれて、伯父は慕っていたようですからとか何とか言った。


その時確か解剖か何かの文脈だったと思うが、先生が祖母の遺体のことを「死体」と言っていたのを未だに覚えている。
言いようのない苛立ちを覚えたが、悲しみの方が勝って何も言えなかった。


淡々と別居している両親に祖母が亡くなった旨をLINEで告げた。
母親は救急隊到着時に私が電話して、タクシーでこちらに向かっている最中だった。
自分の実母の死に際に会えなかったのを彼女はどんなに悔やむだろう。


話が終わってまた待たされた後、救急室への入室が許された。
祖母は寝台に寝かされ、人工呼吸を受けたからか半分口が開いた状態だった。
生前から祖母は口を開けて寝るくせがあった(そのためいびきが酷かった)ので、私は「死ぬ時まで口開けなくて良いじゃない 」と悪態をついた。
そうでもしないとやっていられなかった。


その後母親が到着し、先程とは別の医者が現れて臨終を告げた。
9時23分。未だに覚えている。


死因はちゃんとは聞いていないが、肺に水が溜まっていたそうだ。

その日は元々その病院で定期的な診察を受ける予定だった。

昨晩祖母がしんどいと言っているのに対し、明日病院で診てもらうしかないんじゃない、と言ったのを悔やんだ。

昨日のうちに病院で診てもらえば助かったかも知れない。


なお、母親の話では、前日祖母に会いに来た母親は救急車を呼んだ方が良いのではないかと言ったが祖母は断ったらしい。

その時座っている祖母が一瞬骸骨に見えて、母はゾッとしたそうだ。


後を追うようにして父親も到着した。
受付前に現れた彼に半ば抱きついて、私はやっと声を上げて泣いた。
既に実父を亡くしている父親はただただ受け止めてくれた。
周囲には他にも救急や会計待ちの人達が沢山いたが、救急外来の目の前だから事情は何となく察されただろう。


祖母の遺体は病院の地下の霊安室に移され、私達は以前人形供養で世話になった葬儀会社に連絡をした。
男女の担当者が現れて、ご愁傷様ですと言った。


祖母と私達は車で葬儀会社の建物に移動した。
会議室のようなところで暫く葬儀内容の打ち合わせをした。
死化粧はするか、位牌のデザインとか。
金額のやり取りを聞いた父親が「高っ……」と呟いたのが妙に記憶に残っている。
(家族葬で40万ちょっとしたらしい)


話をしている間隣の部屋で、祖母はドライアイスの詰まった棺に安置され、周りには百合を中心に花が飾られていた。
帰り際にスタッフの人に手を握ってあげてと言われて握ると、やや握り込まれた祖母の手は既に硬くなっていた。
もう生き返らないんだ、と実感した。


葬儀会社を出てから、私は母親に「おばあちゃん、百合嫌いだったんだよなあ……」と言った。
近づくと何故かくしゃみが出るので生前敬遠していたのだった。


翌々日、葬儀の日。
日曜だからか斎場には他にも人がおり、親戚一族と思しき十数人の集団の中には年齢一桁であろう子供がいるのも印象的だった。
一昨日いっぱい泣いたからもう泣かないわ~、と私は軽口を叩いていた。


私は棺に入れるための祖母宛ての手紙を持参していた。
手紙を入れることを思いついて、一般的にも入れてもいいものだとネットで調べた。
ペットのハムスター達がそっちに行ったらよろしくとか、化けて出ても良いからとか、色々書いた。


祖母は口をできる限り閉じられた状態で、死化粧はしないプランだったが綺麗な状態にしてくれていた。
棺の中を渡された花でいっぱいにした。
スタッフの人に手紙を入れていいか確認して、そっと置いたら、出涸らしたと思った涙がまた溢れてきた。
唇を水で湿らせて、別れの言葉を告げたり、顔に触れたりした。


出棺の瞬間、涙が止まらず嗚咽した。
私の目の前で母親もしゃがんで泣き崩れた。

父親が静かに拝んでいたのが対照的だった。


火葬が終わるまで、斎場のカフェで過ごした。
私は「何で焼いちゃうの。焼かなければ生き返るかもしれないじゃない」と泣きながら怒った。
亡くなった実感は出来ても受け入れられはしていなかった。
それに対して父親が何と言ったかは覚えていない。


約1時間で火葬が終わり、骨上げをした。
近親者が亡くなるのは初めてだったので、初めて生で人骨を見たし、箸渡しという習慣を初めて知った。
真っ白とは言えない奇妙な色をしていて、83歳とは思えないくらい下顎の骨がしっかりしており、他の骨も灰にならずに残っていたので、骨壺がいっぱいになった。(これには驚いて涙が引っ込んだ)
隣の老紳士が拾っていた骨は少なくて対照的だった。
下顎の骨を一番上に載せた後、スタッフの人が祖母の眼鏡を掛けさせるように載せようとしてくれたが、壺に蓋が出来ないので断念した。


骨壺は我が家に持ち帰った。
電車は使わずタクシーで帰宅し、家に着くまで兄妹である伯父と母親が交互に壺を持った。
普段おどけたりしない伯父が「帰ってきたよ~」と壺に語りかけているのが印象的だった。


日が空いて、四十九日の日は祖母が生前に合同墓を契約したお寺に出向いた。
通された部屋で法要らしきことをした。
お坊さんが何か有難い話をしてくれたが、何の話だったかは忘れてしまった。
葬式自体が初めてだったので、お焼香も初めてやった。
今回のために伯父が買ってくれた淡い色の数珠を手に通した。


その後合同墓の礼拝堂に案内された。
参拝についての説明を受けたあと、祖母の遺骨とはここでお別れとなった。
1人ずつ拝んで、最後に私が拝んで、ここでとうとう涙が流れたが号泣するほどではなかった。


寺を後にして、一旦全員で我が家に帰宅した。
いくらか気持ちが落ち着いた私は、父親にハムスター達を会わせて遊ばせた。
父親は飼っていたコーギーと比較して「小さい!」と言っていた。


夜は家の近くの中華料理屋で夕食をとった。
人が死んだ後なのにと気が引けたが、こういうのの後はワイワイやるものだということも初めて知った。


なお、祖母の死で打ちひしがれていた私が地下アイドルに出会って沼に嵌っていったりするのはまた別の話である。


あの中華料理屋は間もなく潰れてなくなってしまった。

いつか結婚したい人が出来たらそこで食事をして伯父に挨拶させるんだと思っていたのに叶わなくなってしまった。


当時飼っていたハムスター達は皆虹の橋を渡った。

寿命の短い動物で死を経験しておけば人間の死にも幾らか耐えられるだろうという非常に邪な気持ちで飼い始めたが(勿論純粋に可愛いという気持ちもあったが)、バチが当たったのか順番が逆になってしまった。慣れるなんてことはなくて、彼等が亡くなった時も普通に泣いた。
祖母に「やーね、あんた達来ちゃったの?早いわねえ」と迎えられただろう。
祖母は生前ハムスター達のすばしっこさに辟易していたが、とても可愛がってくれた。向こうでも仲良く元気にしているだろうか。


また、祖母が亡くなってから2年3ヶ月ちょっとの間に有名人が次々亡くなった。
向こうでも話題になっているだろうか。


今でも亡くなった時のことを鮮明に思い出せるし、思い出すと涙が出る。この文章を書いている間も泣いた。

若い時から念願だった美大に80近くになってやっと入れたのに、卒業できなかったのが残念でならない。(死ぬ少し前に「卒業できずに死ぬ気がする。昔から何事も上手くいかないの」と言っていた)

反抗期の頃に過剰に反抗したり、祖母の知らないSNSで死ねとか呟いたのを後悔もする。

亡くなる前日にそれまで一度も言ったことがない「死にたい」という言葉を零したのも忘れられない。


礼拝堂には案内以来一度も行っていない。

行かなくてもこうして思い出せるからだ。

生前、合同墓を契約したことを嬉々と報告して、「私が死んだらあそこに入るから。あのお寺カフェなんかもあるんだよ。お参りついでにそこで一休みするといい」と言っていたが、そのカフェにも行ったことがない。でもあれだけ嬉しそうだったので、一度は行った方がいいだろう。


手紙で化けて出ても良いよと言ったのに祖母は未だに現れない。
いなくなった実感が未だにないので、夢には生きてる体で出てきたり、たまに生き返った体で出てきたりするが(喜んで目覚めた後の喪失感と言ったらない)、本人が死んだ人として出てくる気はないようだ。