今日は、入江杏さんのミシュカの森に参加してきました。

 

悲しみは隠さなくても良い。

 

悲しみをさらけ出すことで、新しい何かにつながる。

 

それが、「グリーフケア」。

 

最近、このグリーフケアいついての記事をよく見ます。

 

犯罪にあって残された遺族。

 

警察の杜撰な操作によって冤罪の罪を被せられた家族。

 

子どもを病によって亡くしてしまった家族。

 

様々な悲しみがこの世の中には存在します。

 

その悲しみをさらけ出すことで、新しい生きる力に変える事ができる。

 

いや、生きる力に変えていくようにする。

 

悲しみは、大切な感情の一つ。

 

笑うのと同じで、隠さなくていい。

 

そう学ばせていただきました。

 

今回のゲストは、小説家の平野啓一郎さんだったのですが、話の大半は

 

「死刑制度」

 

について。

 

皆さんは、死刑制度についてどのように考えていますか?

 

私も以前までは、賛成派でした。

 

しかし、「死刑」にすればすべて終わるのでしょうか?

 

当事者には、終わりはないと思います。

 

その事件に関係の無い他人は、

 

「死刑=命で償った。事件は、終わった。」

 

なのかもしれません。

 

しかし、それは、他人だけの勝手な考え方なんですよね。

 

遺族の方に対して、自分の勝手な感情や代弁をかぶせた偽善的な考え。

 

だと思います。

 

今回、平野さんのお話を聞いてはっとしたのは、

 

私達が持つ「人権」はどこにあるのか?ということ。

 

確かに、自分の勝手な意思で犯罪を犯し、人を殺してしまう。

 

殺された方には、「人権」はないのか!となるのかもしれませんが、では、反対に殺してしまったからという理由で、その加害者の人権を奪っても良いのか?ということにもなります。

 

「死」に対しての考えや「人権」というのは、とてもむずかしい。

 

最近の事件でいうと、京都の放火事件。

 

大勢の方が亡くなりましたね。

 

非常に残忍な事件でした。

 

しかし、事件の加害者は、病院で手当をしてくれる方々に対して、

 

「こんなに優しくしてもらったのは初めてだ…」

 

と話したそうです。きっと彼の場合も、今まで、自分の人権を認められていなかった…

 

もっと早くに社会がそこに気づいていたら、今回のような事件を起こさなかったかもしれません。

このことから、やはり幼いうちからきちんと「人権」というものを尊重していくのが、これからの時代はより大切になるであろう…と感じました。

 

しかし、子どもは色々な部分で「人権」が尊重されていない部分があります。

 

今の保育の現場では、労働環境が悪く保育士が疲弊し、保育士の人権すら保証されていないのですから、子どもへの人権は、より尊重されないような世界になっています。

 

人間形成が完成される幼児期こそ、こうした意識が大切なのでは?とも感じました。

 

話は戻りますが、「死刑」を執行する際に、ボタンを押すそうなのですが、その担当職員は3人。

 

目の前の執行ボタンを押して、刑を執行するそうです。

 

もちろんどのボタンが、執行ボタンとはわからないですが、担当した職員は、

 

「自分が殺してしまったかもしれない…」

 

と精神的に病んでしまう人もいるとか。

 

そして、その日に出た特別な手当ては、死刑で亡くなった人の供養に使う人がほとんどだと聞きます。

 

「死刑」をすることが果たして正しいのか?

 

命で終わらせて、気持ちの整理がつくのであればいいですが、本当にそれで良いのか?

 

死刑にしない=罪を許したではなく、私達が本当に考えなくてはならないのは、憎しみへのフォーカスではなく、残された人たちを癒やすにはどうしたら良いのかを考えることではないのか?

 

平野さんのお話を聞いて、本当にいろいろ考えさせられました。

 

また、思春期の自殺への話もしていたのですが、平野さん自身が、思春期の子どもたちへ話をするときに、分人について語るそうです。

分人とは、簡単に言うと、人は個人というくくりでなく、色々な関係に分けて所属をしておくことという意味があります。

 

何故、この「分人」が大切かというと、自分の生きる力を1つの場所に注ぐのではなく、分散させることで、うまく行かなくなったときに、心の逃げ道をいくつも作っておけば、傷つくことや悲しみへのダメージが減るからです。

 

確かに、私も高校生の時代にイジメられた経験がありましたが、学校が終わったあとは、違う仲間と過ごす時間が、辛い時間を忘れさせてくれました。また、人間関係もいくつかのグループに所属していたので、うまく行かなければ、別のグループに移動することで心は穏やかに過ごせていた気がします。

 

1つの場所で無理をしようとするから、精神が病んでしまう。

 

逃げることは、決して悪いことでも何でも無く、生きていく中の選択では必要なことなのです。

しかし、人はいつしか学業の中で「同調」を強いられます。「協調」ではなく、「同調」を。

 

それが、人を苦しめるのではないでしょうか?

 

平野さん自身も、過去の属性と現在の属性を、学生たちに見せながら、

 

「未来には希望が沢山あるんだよ!」

 

ということを、可視化して伝えているそうです。

可視化は、いつの時代も大切です。

イメージしやすくなりますし、希望をそこで持つこともできます。

 

若い子たちは、どのように生きていけば良いのか…まだ、生き方については、経験がないのでわからないことが多くあります。

 

そこを、私達大人が、希望を持てるようなアプローチを沢山していけば、生きる力ともなりますよね。

 

そして、それが子どもたちの「人権」を守ることにもつながっていくような気がします。

 

5時間弱のイベントでしたが、本当に学ぶことが多かったです。

 

杏さん、平野さん本当にありがとうございました。

 

 

 

 


 

https://www.asahi.com/articles/ASMCL5VY9MCLUTIL03G.html?ref=line_digest   

 保育経験わずか3年で園長に 問題続く認可園、背景には   

 こんにちは。 今日はこんな記事から。   

 恐いですね…しかし、これが現実です。   

 昔の保育園は、   

 「新人・中堅・ベテラン」   

 と、うまくピラミッドが作られていました。   

 しかし、近年は、このベテランがこぞって新しく開園された保育園へ吸収されていき、   

 保育の現場は、   

 「新人・園長」   

 で成り立っているところが多くなりました。   

 そうすると何が起きるのか?   

 今まで新人を指導していた先生がいないので、園長が新人を指導しなくてはならなくなります。   

 しかし、それでは手が回らないので、経験年数2年くらいの保育士が、中堅的な立場となり、新人に指導します。   

 本来ならば、中堅というのは保育経験10年以上の人を指すのですが、やむ負えない状況になっているのです。   

 そして、今は更に深刻になり…園長経験が無くても園長として役職に就けたり、新規開園の保育園の人手が追い付かないので、保育経験が数年でも園長として役職を置かざる得ない状況にもなっています。   

 しかし本当にそれでいいのでしょうか?   

 園長は、保育経験が長ければいいというわけではありません。   

 そこに加えて、職員をマネージメントする力も備わっていなければならないわけです。   

 近年、保育士不足が話題に出ていますが、保育士不足!なのではなくて、保育士が保育の仕事に見切りをつけている人が増えている気がするのです。   

 考えてみてください。   

 園長が、保育経験年数が浅い・マネージメントする力も低い。   

 その下で働いている人は、自らの「質」をあげることができるでしょうか?   

 園長が機能していないので、きっと「質」は下がり続け、子どもにもそれが反映されるのではないでしょうか?   

 そして、新人保育士は   

 「もう保育園で働きたくない」   

 となり、保育の業界を去る人もいれば、   

 「もっといいところがあるかもしれない」   

 と、ジプシーのように、保育園を転々し、履歴書の欄には転職した回数ばかりが増えていくのでしょう。   

 離職率が高くなれば、だれのせいになるでしょうか?   

 そうです。園長ですね。   

 しかし、元からマネージメントする力が無かったのに、経験が数年あるからと言って、園長という役職を任され、失敗したからと言って、責任を擦り付けられてしまうのは…   

 どうなのでしょうか?   

 私は、やはり国に問題があると思います。   

 男女雇用均等法ができて30年弱になりますが、女性の社会進出や、都市部の人口増加に加えて。拡大家族から核家族へ…と時代が移り変わっているのに、保育という環境は全く変わりませんでした。   

 それこそ、2007年に保育士不足に備えて「准保育士」を!というときに、この准保育士という職業ができていればここまでこじれることは無かったと思います。   

 保育園が増え、保育士が不足する。   

 わかり切っていたことですよね。   

 保育士が不足しているから、保育士の資格のハードルを下げる(試験を年2回にするや、必須科目を4教科から選択制にしたりなど…   

 このハードルは、同時に保育の「質」を下げたことにもつながります。   

 今、保育の時代は、「質」の話を多くされますが、   

 上で法案を考えている人には、「質」ではなく、   

 「子どもを見るには「資格」がないとだめなので、とにかく資格を取らせよう!」   

 となっている気がします。   

 もし、准保育士を推奨していたら…   

 保育士の資格の「質」は保たれたかと思います。   

 と悲観的になっていて、具体的な解決方法は?…と言われてしまうかもしれませんが、   

 保育は多様化が始まっています。   

 保育経験よりもこれからの時代に大切なのは、マネージメント能力が大切になってきます。   

 ですので、他業種でマネージメントスキルの高い人が保育の現場に入り、保育士を指導していく。   

 運営をするうえで、保育に対しての思いも大切にしなければならないこともあるので、そういった部分で、経験年数がある方の援助を借りていく。   

 今の時代に、「保育力」「マネージメント能力」この2つをいきなり1人が担うのは無理だと思います。   

 保育の運営は、子どもの成長に関わってきます。   

 これは、家庭と同じで、夫婦が上手くいっていると、子どもの情緒は安定し、脳の発育にもとても良いといわれていますが、反対に夫婦が上手くいっていないと、子どもは不安定になり、脳は委縮していくともいわれています。   

 保育園の開所時間が、平均して12時間といわれている時代。   

 1日24時間と考えると、半分を占めます。   

 保育園はより子どもたちにとって、居心地の良い場所にしていかなくてはならないのに、   

 今それが保育の現場でできているのか?   

 まさに今だからこそしっかり考えていかないと、子ども達・保護者・そして保育士がどんどん犠牲になっていきます。   

 「子どもがいないから関係ない」   

 ではなく、自分たちの未来の為に考えていってほしいと私は思います。