おはようございます。2024年いっとう最初の日曜日になりました。
今年度は、12月31日・1月1日と、連続で教会の礼拝に通ってるクリスチャンが殆どでした。
いうことで、本来の容での礼拝は、今回が本格的スタートとも言えるかなと思います。
世界各地・日本各地の教会では、
元旦当日には、それぞれ新年の抱負になるような聖書のお話が為されたと思いますけども・・・。
今回は、私らぁ一人ひとりが、どういうふうな礼拝をささげたら神様に喜んで頂けるか。
そのことについて、皆さんにお話したいと思います。
 
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  イエス様がサマリアを通られる

先月のアドベントの時には、イエス様がお生まれになるまでの出来事を綴らして頂きました。

記事を読んでくださった方、覚えてくださってますでしょうか。

イエス様は、マリアとヨセフの子どもとしてベツレヘムで生まれた後に、

30歳になられてから、救い主としての働きを始められました。

イエス様は、神様のことを伝える旅ん中で、ある時、サマリアの町を通られました。

その頃のユダヤ人は、サマリア人と仲が悪て、サマリアを通るんを避けとったんですけども・・・、

イエス様は、あえてサマリアに来られたんです。

それは、御自身にとって大切な出会いがある、いうことを御存知やったさかいなんです。

まずは、この女性との出会いから、神様に喜ばれる礼拝が如何いうもんかを見ていきましょか。

 

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  イエス様とサマリアの女性

イエス様が井戸の入口の近くに座っとられた時、一人の女性が肩に水瓶を担いで近づいてきました。

この女性は、井戸へ水を汲みに来たんやんね。

イエス様は、この女性に「水を飲ませてくれませんか」って声を掛けました。

女性は、驚いて言いました。「なぜユダヤ人のあなたがサマリア人の私に頼むんですか」

イエス様は、女性を見つめて、こう言われました。

「もし、あなたが、わたしを誰か知っていたら、

あなたがの方からわたしに『生ける水』を飲ませてくださいと頼んだことでしょう。」

女性は聞き返しました。「生ける水?そんな水が何処にあるのですか」

ますます驚いとる女性に向かって、イエス様は、こう、お答えになりました。

「ここの井戸の水を汲んでも、また喉は渇きます。

でも、わたしが与える水を飲む人は、渇くことがなくなります。」

この「生ける水」いうんは、イエス様が私らぁ一人ひとりに与えてくださる、永遠のいのちのこと。

女性は、イエス様の言われていることばの意味を理解することは出来んかったんやけど、

でも、イエス様が語られる不思議な御言葉に、すっかり引き込まれていったんやんね。

 

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  礼拝する上で特に大事なことって何なん?

このサマリアの女性は、イエス様を、預言者のひとりなんかなと思とったようです。

そこで、自分自身が疑問に思とることについて、訊ねることにしました。

「私たちサマリア人は、ここの山で礼拝をささげてきたのですが・・・、

ユダヤ人は、礼拝するべき場所は、エルサレムの神殿だというのです。それは正しいのですか?」

そこで、イエス様は、お答えになりました。

「わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、

あなたたちが自由に神様を礼拝する時が来ます。」
神殿みたいな決められた場所で、祭司って呼ばれる特別な者が礼拝を司る・・・とかやのうて、

どんな場所でも、みんなで自由に礼拝をささげることの出来る時代が来るって。

イエス様は、そういうふうに教えてくださったんやんね。

さらに、イエス様は、この女性に、こんなふうにも教えてくださっとんですよ。

しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。

今がその時です。

父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

 

(ヨハネの福音書4章23~24節)

イエス様が地上に来られた、この時から、新しい礼拝の時代が来たんです。

旧約聖書の時代には、礼拝のささげ物の生贄にって、羊とかの動物を殺したりしとったんやけど、

でも、イエス様が、全ての人の罪が赦されるように・・・って十字架に掛かってくださるさかい、

動物を犠牲にする必要がなくなるっていうことなんやんね。

イエス様を、自分の個人的な救い主として信じる人には、その人自身に聖霊と真理が与えられて、

神様に喜ばれる、心からの礼拝をささげることが出来るようになるんですよ。

その救い主を送ってくださる神様に感謝をささげて、語られる神様のことばに耳を傾ける。

ほって、お聴きした御言葉に対して、喜んで従って、神様のお考え・御意志に応答して歩んでいく。

そういう態度で礼拝をすることが大事なんやでって、イエス様は教えてくださっとんやんね。

そやから・・・礼拝をささげる時には。

神様以外のことを考えたり、礼拝の時間とは関係ないような事に心を向けるんは正しぃないんです。

ただひたすら神様を見上げて、『神様、感謝します。あなたを愛します』と。

そういう気持ちで礼拝することが大事なんですわ。

確かに、私らぁの目に、神様・イエス様のお姿は見えへんのですけども・・・。

でも、クリスチャンらぁは、その神様・イエス様御自身を、信仰の目と、心の目で見とんですよね。

そう言いつつも、未完成やったりするさかい、お酒とかタバコが止められん人も居んねんけど。

でも、真剣な態度で「私を・・・神様の御姿に似た者へと導いてください」って祈っていくなら、

たとえ、時間は掛かっても、神様が必ず、そのように導いてくださるはずなんです。

ただ、中途半端な気持ちでクリスチャン生活を歩んでると、途中で道を外す人も居るんですよね。

私も、現に、そういう人間を何人か見てきました。

まさかやけど・・・もしかしたら。

このアメーバブログを使うとる人ん中でも、躓いてる人が居るんやないかと気になってしまうんね。

私かって、人をさばく資格は無い罪人やけど・・・それでも、心配な人は居ます。

「この人・・・ほんまにイエス様を見上げて歩んどる人なんかな。道を踏み外しとん違うかな」と。

 

でも、ひたすらに神様を見上げて歩んでる人には、何とも言えん平安と恵みが与えられる。

その事を・・・ぜひ知って頂けたらなぁって、心から願います。

 

 

 

今回も、お付き合い、ありがとうございました。