つづきです。
 この歌と同じような説話が、『日本書紀』「推古紀」21年12月の条にあります。
 聖徳太子が片岡に赴いた折、路のほとりに飢えた者を見て、飲食物を与え衣服を脱ぎ掛け、
♪しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(え)て 臥(こ)やせる その旅人あはれ 
 親なしに 汝(なれ)生(な)れけめや さす竹の 君はやなき 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ
 と、詠んだことになっています。

 万葉集の歌(巻3・415)は、それが伝承間に短歌形式になったものを収めたそうです。
 伝承歌という根拠は、地名が「片岡山」と「竜田山」とが違うだけで、「臥やせる この旅人あはれ」 が共通するからです。万葉時代は、みんなで歌を共有したのです。

 翌日、太子が使者に その人を見に行かせたところ、飢人は、すでに死んでいました。
 太子は、大いに悲しんで、亡骸(なきがら)をその場所に埋葬しました。
 数日後、太子は、「あの人は普通の人ではない。聖人に違いない。」と悟り、
 使者をやり お墓を確認したところ、棺の中には屍はなくなっていて、柩の上に衣服だけが
 残されていました。
 
 奈良県王寺町にある達磨寺です。
 ここが聖徳太子が、飢人の姿をした達磨大師に出会った地といわれます。
 達磨寺の始まりは、
 消え去った飢人は、達磨の生まれ変わりであって、聖徳太子がその奇跡に 
 自ら刻んだ達磨の木像を安置して建立した、となっています。

おまけです。
 万葉集の歌は、三大部立(ぶだて)と呼ばれる雑歌(ぞうか)・相聞(そうもん)・挽歌(ばんか)に
 分類配列されています。
 「雑歌」は、旅の歌、宴会の歌、四季の歌などで、その名は、『文選』の「雑詩」によった。
 「相聞」は、対詠のみならず独詠をも含めた恋愛の歌。部立名の「相聞」も『文選』から暗示を得ている。
 「挽歌」は、本来、人を葬る際に棺を挽く者が謡う歌を意味するが、広く死を悲しむ歌をさす。
 「挽歌」の部立名も、『文選』の「挽歌」による。
 巻三・四は、雑歌・相聞・挽歌の三部立を保ったまま、分量的にもほぼ等しくなるようにするには、
 巻四の相聞が大きすぎるため、その中の比喩的性格の濃いものを巻三に移して「譬喩(ひゆ)歌」とした。
 巻一⇒雑歌84首。                    巻二⇒相聞56首、挽歌94首。
 巻三⇒雑歌155首、譬喩歌25首、挽歌69首。   巻四⇒相聞309首。
 
はい。万葉集に聖徳太子の歌があります。(●^0^●)ノ
   上宮聖徳皇子(かみつみやしやうとこのみこ)、竹原井(たかはらのい)に出遊(い)でましし時に、
   竜田山(たつたやま)の死人を見悲傷して作らす歌一首
   小墾田宮(おはりだのみや)に天(あめ)の下治(したおさ)めたまひし天皇(てんわう)の代。
   小墾田宮に天の下治めたまひしは豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇なり。
   諱(いみな)は額田(ぬかた)、諡(おくりな)は推古

   (上宮聖徳皇子が竹原井にお出かけになった時に、竜田山の死人を見て悲しんで作られたお歌一首
    小墾田宮の天皇の御代。小墾田宮で天下を治められたのは豊御食炊屋姫天皇である。
    諱(いみな)は額田(ぬかた)、諡(おくりな)は推古)

* 上宮→「推古紀」や『上宮法王定説』に、
     父の用明天皇の宮の南の上の殿に住むゆえに「上宮」というとある。
* 竹原井→大阪府柏原市高井田の地。大和と難波とを結ぶ交通の要路に当たり、離宮が造られた。
* 竜田山→現在、その山の名はなく、信貴山の南から柏原市にまたがる産地一帯をいう。
      大和・平城京から河内・難波に出るには、この山を越える竜田道をとるのが一般的だった。
* 小墾田宮→推古天皇の皇居。小墾田は、飛鳥の北部一帯。
* 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)→推古天皇。

♪家(いへ)ならば 妹(いも)が手まかむ 草枕 旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと)あはれ
                                       (巻3・415)

(家にいたら 妻の手を枕(まくら)とするだろうに (草枕)旅に出て倒れている この旅人は哀れだ)

挽歌です。
「行路死人歌」は、旅先で飢えて倒れた、または不慮の災難にあった死人を歌った歌です。
 旅する人は、素性の知れない異人でもあったから、たとえ人里近くで難にあっても、たやすく援助を
 受けられなかったのでしょう。
 野ざらしとなった死者は、「死」そのものが「けがれ」だったために、
 村落の人々にも、同じ道を旅する人々にも、恐れの対象となったのです。
 だから、「行路死人歌」は、異郷の土くれとなっても、魂が荒ぶることのないよう鎮魂の祈りをこめて
 歌われています。
 
隋の煬帝つづきです。
隋は、40年たらずで滅亡します。
 大運河の建設をはじめとする大土木工事や、高句麗へのたびかさなる遠征は、農民の生活を苦しめました。
 やがて、隋に対する農民の不満が爆発して、各地に反乱が起こりました。
 反乱のなかで、煬帝は、江南にのがれ、ただ遊んでばかりで、ついに、
 618年、宇文化及(親衛隊長)が、故郷への帰還を望む近衛兵を率いて、江都にいた煬帝を殺しました。
      煬帝、50才。
 こうして隋は、わずか38年で滅びました。

<聖徳太子と煬帝>
 中国には、古くから自分の国が世界の中心であり、まわりの国や民族は野蛮だとする、
 「中華」思想がありました。
 『隋書』によると、
 607年、聖徳太子の命で小野妹子(おののいもこ)が、遣隋使として送られ、
 隋の煬帝に国書を手わたしました。そのなかに、
 「日出 (ひいづ)る処 (ところ)の天子、書を日没 (ひぼっ)する処の天子に致 (いた)す」
 とありました。
 「日出る処の天子」とは、日本の天皇をさし、「日没する処の天子」とは、中国の皇帝をさしています。
 「天子」は、そもそも中華思想で君主を表わし、国を治めるものをさしていました。
 統治しているはずの倭国が、隋と対等である「天子」を名乗ったことに対して、煬帝は立腹しました。
 「ちっぽけな、東の海にうかぶ日本が、中國と対等な立場など、ゆるせん」と、おこりました。

東アジアの常識を破る聖徳太子の外交が、隋との交渉を成功に導いた!
 当時、東アジアの世界は、中国王朝の冊封(さくほう)体制化にあり、臣下の礼をとるのが外交上の
 常識となっていました。しかし、このとき太子は、対等外交をもとめました。
 この頃の大和朝廷は、それまで続けていた対朝鮮の武力外交を放棄して、平和外交に転じ、百済・新羅
 のみならず高句麗からも、友好的な使者が、来朝していました。
 一方、隋は、598年から行っていた高句麗遠征で、苦戦していました。
 大和朝廷は、この事情を知っていたから、倭と高句麗が、友好関係を結ぶのを得策としない隋は、
 日本の要求を認めると予想していました。
 結果は、予想通り。
 翌608年、小野妹子の帰国と共に、隋から使者の裴世清(はいせいせい)が送られています。

はい。江蘇省揚州市で発見された隋の第2代皇帝 煬帝の墓は、
 30年後に亡くなった皇后と枕を並べて眠る夫婦合葬(がっそう)墓でした。
 「煬帝の墓、太宗が改葬」 唐の権力安定後に評価修正か。(朝日新聞)。なるほど。