ウクライナ情勢が連日のように報道される時期に、日本国政府はウクライナの地名表記を変更すると決めたらしい。表記については仕事上の関わりが深かった事もあり興味津々。ちょっと突っ込んでみる。

☞ 首都「キエフ」の表記をウクライナ語の「キーウ」に変更へ 日本政府

現在のロシア語の発音に基づく「キエフ」からウクライナ語の発音に基づく「キーウ」に変更する方針を固めた

ロシア語からウクライナ語ベースに変更

旧ソ連崩壊に伴い、ソ連から分離独立した国々のひとつがウクライナで、ソ連時代の地名表記がそのまま使われていた。日本政府は、クライナを贔屓するためを表記に変更しようという事だろう。まぁ、欧米諸国と足並みを揃えてウクライナを贔屓するのは悪いことではない。

 

しかし、ウクライナ情勢が頻繁に報道されているとき、急な変更に違和感を感じている人が多そうだ。違和感以外にも「いまこの時点で変えるべきか?」「いまどき国が敵性語認定かよ」とか「表記を変えても情勢は変わらない」という意見も見られる。また、ネットで検索する場合も表記に新旧があるのは好ましいことではない

 

そもそも外務省は以前から世間(主にマスコミが使う表記基準)とかけ離れた表記を使っていた。

 

ウクライナ大使館の地名変更要望

調べてみると元々はウクライナ大使館が2019年07月17日付けで要望を出していた。

☞ ウクライーナの地名の正しいスペルと使用法に関する公式ガイド

ここの変えるべき地名リストから、ロシア語 ‘the Ukraine’はウクライナ語でUkraineであり、日本語は「ウクライーナ」と表記すべきということを表している。同様に従来のキエフについては、KievがKyivとなっており、日本語は「クィイヴ」と要望している。

ソビエト時代のスペル

正しい現代的なスペル

日本語

‘the Ukraine’

Ukraine

ウクライーナ

Kiev

Kyiv

クィイヴ

Lvov

Lviv

リヴィヴ

Odessa

Odesa

オデサ

Kharkov

Kharkiv

ハルキヴ

Nikolaev

Mykolaiv

ムィコライヴ

Rovno

Rivne

リヴネ

Ternopol

Ternopil

テルノピリ

Chernobyl

Chornobyl

チョルノブィリ

 

要望された地名表記変更はどうなったか?

☞ 【ウクライナの地名変更リスト】チェルノブイリはチョルノービリ。オデッサはオデーサに

日本国政府はウクライナ大使館の要望を受け(たのかどうか?)下記の5つの地名をウクライナ語に沿った日本語表記に変更すると決定した。これら以外は従来どおりのようだ。従来の表記、ウクライナの要望、新表記を比較してみると、ウクライナ側が要望した表記をそのまま反映していないことが分かる。

従来の表記

ウクライナ要望

新表記

キエフ

クィイヴ

キーウ

ハリコフ

ハルキヴ

ハルキウ

オデッサ

オデサ

オデーサ

ドニエプル

ドニプロ

チェルノブイリ

チョルノブィリ

チョルノービリ

 

悩む言葉

要望されていないドニエプルも変更しているし。「ドニエプル」はマニアックなバイクの銘柄でもあるのだが、どうしてこんなんになっちゃったのかね?

 

“有識者”が考えた地名案は?

どうやらウクライナ大使館の要望を受ける形で“有識者”らが2019年09月04日に集まって検討したらしい。その議事録がある。

☞  「ウクライナの地名の カタカナ表記に関する有識者会議」 報告(PDF)

それを見ると「クィ」や「ヴ」などは“義務教育課程で使用しない”という理由で不採用となったようだ。一般には「ヴェルディ」や「クインテット」などの例はありますがね。また、文化庁の外来語の表記基準の「留意事項その2(細則的な事項)」によると「クィ」は許容されるはずだが。

カタカナ表記に関する有識者会議

報告書の「クィーイウ → キーイウ→日本人が実際に発音するとキーウとなるのでキーウ」というのも変な感じ。滑舌が悪くなったおじさんへの配慮だろうか?また「オデサ→オデーサ (ロシア語式のオデッサを避けるためには, 棒引きがないと発音しにくいので) 」と決めながら「長期滞在日本人が結局棒引き抜きでウクライナ語の固有名詞を発音することが多いので, 原則棒引きは使用を避け」というのもなんだかねぇ。棒引き(音引き、長音)符号の使い方への妙な執着は過去の暗い事件を思い出す。

 

三流芸能メディア “キエフ”と言ったらロシアに忖度?

たぶん出るだろうと思っていたが、やはり旧名「キエフ」と口にしただけで「ロシアに忖度」だとレッテルを貼るクズメディアが登場した。

☞ ロシアに忖度!?「モーニングショー」玉川徹氏が「キエフ」連呼で批判殺到

短いコメントの中で「キエフ」を連呼したことに、SNS上では《意地でも「キエフ」と呼び続けるロシア寄りのコメンテーター》《フリップも全部キーウなのに玉川氏だけキエフ読み》などと批判コメントが殺到する事態に。

文字と違ってトークでは言い慣れた言葉がつい口に出るのは珍しくない。政府が決めてから日が浅いときはやむをえないものだ。しかし、政府が使う呼称で発言しないと、ただちに「ロシア寄り」のレッテルを貼るクズメディアって何様よ?と思う。ある意味で大変危険な思想ともいえる。

 

タイミング的に日本国政府が呼び名を変えたことを知らなかったであろう現地取材スタッフのレポートも「キエフ」を連発していた。そもそも、自前で取材せずに、安全な自宅でTVを見てSNSのネットウヨのコメントを引用しただけで記事にして稼ごうという安易さに呆れる。こういうクズメディアが日本で増殖中らしい。

 

番組が放送されてから1時間少々で記事がアップロードされている。ささっとTwitterを適当に漁って、いくつかの極端なコメントをピックアップすればすぐに煽り記事を書き起こせるだろう。インスタント記事もいいところだ。放送後すぐに記事をアップロードするぐらいだから「批判が殺到」したかどうかまできちんとチェックしていないはずだ。

 

こんな安易でバカげた三文記事を記名で出す度胸があるのはどこだ、と調べたら「Asagei Biz=アサ芸ビズ」という三流芸能メディアらしい。どうやら安物芸能メディアと判断されているらしくTwitterですら無視されている様子。報道と芸能ゴシップの区別もできないクズメディアは早く消えてもらいたいものだ。

 

クセの強い国名を使用していた外務省

2003年に在外公館設置法改正案で改正されるまで、外務省は珍奇な国名を公用文に使用していた。たとえば、ヴィエトナム(ベトナム)、アルゼンティン(アルゼンチン)、サイプラス(キプロス)、ノールウェー(ノルウェー)、ジョルダン(ヨルダン)、象牙海岸(コートジボワール)など。「象牙海岸」はフランス語のCôte d'Ivoireをなぜか外来語扱いにせず日本語に翻訳しちゃった訳で、日本の領地とでも思ったのか(笑)また、都市名もプラーグ(プラハ)、ワルソー(ワルシャワ)という具合。

 

外務省の大本営発表をマスコミが読み替えていたため世間は知らなかった訳で、こんなのを流出させたら世間が混乱するだけですがな。こういう変な表記は「権限がある世間知らず」な輩が決めたのじゃないかと…。このような国名地名だけではなく、昭和の時代に工業技術用語にも大混乱が起きた事件があった。

 

長音符号省略事件

それは80年代の中頃に突然降ってきた。当時、筆者はメーカーで技術書関連の書籍を編集していたのだが、突然「英語の末尾が~er, ~orの場合は長音符号を入れないように」とのお達しが来た。理由は「JISで決まった用語だから」という。調べてみると新しくJIS用語が規定されていた。その典型例は「~er, ~orは長音符号なし、ただし3文字以下は除く」という奇妙な規定だった。3文字ルールの部分は「カバー → カバ」になってしまうため後付けされたようだ。

 

長音符号が変な所に入る例もあり、たとえば、キャブレター(キャブレータ)、ラジエター(ラジエータ)、コンピューター(コンピュータ)、ユーザー(ユーザ)などという具合。それまでの表記で何か大きな問題があったかと言えばそんな事はなく、むしろ用語のJIS化で混乱を大きくすることになった。そもそも表記をJISで規定すること自体が馴染まないという違和感があった。

 

しかし、文化庁の外来語の表記基準も「ただし,慣用に応じて「ー」を省くことができる」などと曖昧なこともあり「JISに合わす方が無難」と思考停止した役職者らが導入を進めたのだ。しかし、コンピューター、ユーザーのように世間で使われる用語とJIS語や学術用語との不整合が徐々に社会的な問題として大きくなっていった。

☞ 工業系用語表記法の見直しを-不統一は、教育上も大問題

 

JISに則って表記するように学生に指導しているが、文字情報を発信しているマスコミ業界が上記のような状態なので、その影響は大きく、多くの混乱が生じている

取説2

一般社会やマスコミ界から見るとJIS語圏の住民が異国のように見えることもある。JIS語は一般社会で馴染まないと悪評が立ち、文化庁もどうしてこんな表記になったのか困惑していたようだ。

☞ 第18期国語審議会 第5回総会

「コンピュータ」とか,「プリンタ」とか,「プログラマ」とか,常時使われている。これは御存じだと思うけれども,JIS規格で既に制定されていて,どういうわけか,長音が全部省かれている。だから,「コンピューター」は「コンピュータ」であって,「プリンター」は「プリンタ」,「プログラマー」は「プログラマ」である。どういういきさつでこうなったのか知らないけれども,そのようなことで,業界では一般に使われている。
 ただし,今回の場合には,原音に近い表記という御趣旨と,それから用例集にも「コンピューター/コンピュータ」と二つあるが,産業界でもJISで表記されているようなことが我々が日常使う言葉と余りにもかけ離れているという認識と,それから,学校の先生方もこのごろはどっちを使っていいか分からないというお言葉があったりして,これは学術用語ではあるけれども,日常用語に近くなっているときにはどうしたらいいのかということがやや気になる。

日本語として馴染まない表記ルールをJISが後から決めたことがそもそもの問題の原点だ。諸悪の根源は、JIS用語を決めた決定者が「権限がある世間知らず」だったこと。また、JISという権威を崇拝し、その方向でよいかどうかを判断せず一般社会に流してしまった諸部門の責任者らの責任も大きい。まるで今のロシアの政権のようである。

 

長音符号を省くメリットは、文字数を減らしテキスト容量の削減、文字面積を減らして画面を広く使う」などを挙げていた。だが、もはやテラバイト/4Kディスプレイなどの時代にそぐわない貧乏根性ではないか(笑)というか混乱させるだけでメリットはないと断言できる。

 

用語で分かる企業の文化度

結局、業界の大御所マイクロソフト社が2008年に表記を「コンピューター」にすると決めたことで、長音符号の表記基準に関する議論の方向性が定まったと思う。

☞ 「コンピュータ」→「コンピューター」に MSが表記ルール変更

「er」「or」「ar」などで終わる単語は原則、「コンピューター」「プリンター」「エクスプローラー」など末尾の長音符号を表記

JIS Z 8301:2008ではまだ変な表記ルールをひきずっているが、マイクロソフト社のようにJIS語の基準に従わなくても何も問題が起きていない事実がある。混乱をもたらし日本国の生産性を下げるだけのJIS語はもはや不要なのである。

 

地名表記の話から大きく脱線してしまったが、アナーキー(アナーキ🥴)っぽく言えば、国や役所が言葉の表記を決めたからといって従う義務はない。読み手が限られる私的な文書では「キエフ」だろうが「ドニエプル」だろうが自由に使えばいい。が、公式文書や業務用文書としては基準に従った方が無難だ。しかし、表記基準が変わった途端に新地名に切り替えるメディアがあった。いきなり馴染みがない「ハルキウ」が登場すると、読み手が分からなくなることを考えない悪手なのだ。新しい表記が定着するまで「ハルキウ(ハリコフ)」などと新旧名を併記にするなど、読み手への配慮が欲しいものだ。