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心穏やかに生きたいと思っても、そう上手く行かないのが世の常というものです。
伊東さんが新選組に入隊した事により、屯所の中はいろんな思いが渦巻き始めました。
新選組と伊東さんは『攘夷』という点で結ばれています。
『攘夷』というのは、外国人を排除しようといった思想です。
しかし、新選組は『佐幕派』(幕府を支持する)、伊東さんは『勤王派』(幕府を倒す)。
この相容れないもの同士が手を組んだ事に対し、土方さんは「近藤さんは伊東さんに上手く丸め込まれた」とご立腹です。
そして後に平助君が新選組を脱退する事にも、大きく影響を及ぼしていきます。
そんな少しぎくしゃくし始めた屯所の中で、あの事件は起こりました。
「新選組の中に盗人がいる。今回盗まれたものは金銭じゃねぇが盗みは盗みだ。犯人にはそれなりの処罰を与える。」
朝餉の時間に響いた土方さんの言葉に、私は耳を疑いました。
「新選組の中に泥棒をした人がいるのですか?」
「あぁ、たいした事じゃねぇと言い切ればそんなもんだがな…。」
「そんな!泥棒は泥棒です。人様のものを盗むなんて…。」
原田さんは苦笑いを浮かべながら、こう言いました。
「あのよ、千歳。人様のもんつーかよ…皆のもんって言った方が正しいかもしれねぇな。」
「なんですか?島田さんの作ったおはぎとかですか?」
「島田さんのおはぎなら甘すぎて、皆うんざりしてるだろうよ。山崎なら盗った奴に褒美をやりたいくらいじゃねぇか?いっつもいの一番に味見させられてるからな。」
永倉さんも何故か笑いを堪えています。
「雪村、今回盗まれたものというのはな…きゅうりだ。」
「きゅうり…ですか?」
「そう、きゅうり。だけど、たかがきゅうり、されどきゅうり。僕らは少ない食材の中で上手くやりくりして、毎日の食事を作ってる。きゅうり一本も無駄には出来ない。しかも今は時期じゃないから、きゅうりはとても高価な食材。そうだよね?一君。」
「そうだ。きゅうり泥棒の罪は重い…見つけたら鬼神丸の錆びにしてくれる。」
「えっ、きゅうり一本でですか!でも、確かにきゅうり一本で一品作れますもんね。確かに大罪かも…しれません…けど…。」
(どうしよう…斎藤さん本気だ。きゅうり一本で粛清だなんて…惨すぎる。)
「千歳…冗談だ。お前は何でも鵜呑みにしすぎだ。そんなだから総司にある事無い事吹き込まれて、後で泣く羽目になるんじゃねぇか。」
皆の笑い声と土方さんのため息混じりの言葉に恥ずかしくなり、私は小さくなるしかありません。
「とにかく、きゅうり一本盗まれたくらいで大きな騒ぎにはしたくねぇ。内々に犯人をとっ捕まえる。千歳、もし怪しい動きをする人間がいたらすぐに報告しろ。後は何もしなくていい。ちんけな泥棒でも、相手は刀を持っているって事には間違いないからな。」
「はっはい!あの…でも…。」
「なんだ?」
「私…犯人に心あたりがあるんですけど…でも、そんなはずないと思うし…。」
「言ってみろ。何かの手がかりになるかもしれねぇ。」
「でも…。」
「ごちゃごちゃ言ってる暇があったらさっさと言え!」
「はっ…はいぃぃぃ!」
土方さんの怒声と睨みに驚いて、私は居ずまいを正しこう言いました。
「河童です!きゅうりは河童の大好物です!だから犯人は河童だと思います!」
一瞬しーんと静まり返った後、一気に部屋の中は笑い声でいっぱいになりました。
「まぁ…さすがに土方さんの小姓を務めているとあって珍妙な子供だこと。そのくらい無神経じゃないと、残酷非道な土方さんの小姓は務まらないのかもしれませんわね。あら、失礼。私とした事が、つい口が滑ってしまいましたわ。」
笑い声に混じった伊東さんの嫌味に、土方さんの眉間の皺はますます深くなっていくのでした。
数日経った今日も、相変わらずきゅうり泥棒は捕まらない、しかしきゅうりは盗まれるを繰り返していました。
犯人は本当に河童ではないか、だから犯人が見つからないのでは…そんな噂まで立ち始めました。
(近藤さんと土方さんと沖田さんは外出中、原田さんは市中巡回、平助君も所用で外出、永倉さんと斎藤さんは道場で稽古中。平助君はすぐに戻るって言ってたし、永倉さんと斎藤さんは道場まで走れば大丈夫。とにかく、今日もきゅうり泥棒が目の前に現れない事を祈ろう…。)
しかしこんな時に限って、見たくないものが目に入ってしまうものです。
庭掃除をしていた時、ふと視線をずらすと…きゅうりを一本だけ手にした伊東さんが目に入りました。
(嘘…まさか伊東さんがきゅうり泥棒?)
そしてきゅうりを手にしている伊東さんと言えば…長い黒髪をじっとりと濡らし、時折流れる雫を手拭いで拭きながら歩いています。
「ふふふ…今日も上手い具合にきゅうりが手に入りましたわ。やっぱりきゅうりじゃないとね。」
(どうしよう…伊東さんがきゅうり泥棒なんて。永倉さんと斎藤さんを呼んで来ないと…。)
しかし、道場まで呼びに行っては、伊東さんは自室へと引きこもってしまいます。
私はちょうど近くにいた隊士の方に永倉さんか斎藤さんを呼んできて欲しいと頼み、意を決して伊東さんへと近づきました。
「伊東さん!あの…お話があります。」
「あら、雪村さん。ちょうど良かったわ~。今日もきゅうりが手に入りましたの。貴方もどう?」
(どう?って…私も仲間に引き入れようとしているの?)
「そのきゅうりなんですが…こちらに寄越してください。」
「それは出来ない相談ね。やっと手に入れたきゅうりですもの。でも、今日はすこぶる機嫌がいいから、今回は特別に貴方をお誘いしてるのよ。」
(やっぱり、伊東さんがきゅうり泥棒なんだ。とにかく、伊東さんがきゅうりを口にする事だけは阻止しないと。)
私はきゅうりを奪い取るために、伊東さんの腕を掴みました。
「だめです!伊東さん、きゅうりを口にしちゃいけません!」
「貴方、何言ってるの?えぇ~い、お放しなさい!」
「放しません!絶対に…絶対に放しませんから!」
(永倉さん…斎藤さん…早く来て…じゃないと伊東さんが…)
「雪村、どうした?伊東参謀と何か揉めているのか?」
天の声のように、斎藤さんの呼びかけが耳に入りました。
「斎藤さん!早く来てください!伊東さんが…伊東さんが…伊東さんがきゅうりを口にしたら…河童になってしまいますーーー!!!」
「なんですってーーー!!!」
次の瞬間、興奮気味の叫び声を上げた伊東さんに私は突き飛ばされました。
「雪村さん!貴方…私を河童…河童だとおっしゃりたいのーーー!!!」
「だって、今頭が乾いたから濡らして来たんですよね?きゅうりまで口にしてしまったら、伊東さんは本物の河童になって、元に戻れなくなってしまいます。」
「河童…河童…私が河童…雪村さん!貴方、人を馬鹿にするにも程がありましてよ!」
(斬られる!)
伊東さんが鯉口を切った音が響いた瞬間、私は目を強く瞑りました。
しかし一向に斬られる様子はなく、私がおそるおそる目を開けると、私と伊東さんの間には斎藤さんが立ち塞がっていました。
「雪村の不躾な言葉の数々、雪村に代わり非礼を詫びます。この者は伊東参謀のように学がなく、少々口が過ぎる面が多々あり、副長も頭を抱えております。どうかご容赦いただけないでしょうか?雪村が伊東参謀を河童と勘違いした理由は、河童は水神が零落した姿だという話を見聞きしたためです。水神のように美しく尊い存在である伊東参謀が河童のように醜い姿に変化する…雪村には酷く耐えがたい事だったのでしょう。」
私が口を挟む猶予など一つもなく、斎藤さんは言葉を続けます。
「『桜色に染めし衣とみゆるかな花さく山にきする霞は』伊東参謀はこのような美しい歌をお詠みになると局長からお聞きしました。あの華やかな桜も霞むほど伊東参謀の心は美しく優しいのだと…この歌を聞いて俺は思いました。その清らかな心をこのような者の血で汚すなど…俺には耐え難い。どうか…どうか刀をお納めください。」
「あら…斎藤さんったら見かけによらず学もおありなのね。私が水神の化身…美しい…清らかだなんて…あら嫌だ。私と来たら話も聞かずにかっとなってしまいましたわね。雪村さん、ごめんなさい。貴方は私の事を思って、きゅうりを奪い取ろうとしたのね。大丈夫よ。このきゅうりは食べるために手に入れたのではないの。その話はまた今度。では、失礼いたしますわ。」
伊東さんと斎藤さんのやりとりをぼんやりと眺めているうちに、伊東さんは機嫌を良くして部屋へと去って行ってしまいました。
「雪村。」
「はい…。」
斎藤さんの冷たい呼びかけに、背筋が凍るような気がしました。
「あんたが不用意な事を言えば、副長が恥をかく。そしてそれは局長の恥でもある。そのくらいあんたでも理解出来るであろう?」
「はい…申し訳…ございませんでした。」
「一瞬でも俺が遅れればあんたは伊東さんに斬られ、今頃は息をしていなかっただろう。その原因が伊東さんを泥棒扱いした事となれば、あんたに同情する者は少ない。」
「ごめんなさい…。」
「しかしきゅうり泥棒の真偽については、改めて伊東さん本人に問いたださねばならぬ。伊東さんが河童だなど…確かに面妖な顔をしているが…ふっ…それはさすがに言い過ぎであろう。」
(えっ…斎藤さん?)
いつも冷淡で笑わない斎藤さんが、少しだけ顔を緩め笑っている…私の目には何故かそんな風に見えました。
さて、きゅうり泥棒の真相ですが、あのきゅうりは伊東さん自らが買い求めたものであり、食事用の食材とともに勝手場に置いてあったそうです。
伊東さんからその説明がなかった事、そして斎藤さんが上手く仲介した事もあり、この騒動は穏便に収束する事となりました。
伊東さんがわざわざきゅうりを買い求めていた理由はと言うと…
「伊東さん…まだ駄目ですか?これ以上じっとしているのは…無理です。」
「雪村さん、喋らないで頂戴!せっかくのきゅうりぱっくが剥がれてしまうじゃないの!」
私の顔面には、輪切りにされたきゅうりが多数貼り付けられていました。
(いっそ全部剥がれた方がいいよ…きゅうりが生温くて…すごく気持ち悪い…。)
「いいこと?これからは武士たる者は美しくなければいけないの。逞しくむさ苦しい事が武士道に直結しているわけではないのよ。貴方には素質があると思ったから、貴重なきゅうりぱっくを施しているの。おわかり?」
(武士道について教えてくれるって言ったから、非番の日に時間を割いて来たのに…。違う、武士道にきゅうりは絶対に関係ないと思う。)
「ぱっくが終わったら、次は眉を整えてあげる。それから立ち振る舞いの練習ね。立つ、座る、刀を振るう、すべての動きが美しくなければ立派な武士にはなれなくてよ。」
(眉も全然関係ないと思う。立ち振る舞いについては知って損はないと思うから…我慢するしかないのかな~。でもこのぱっくは嫌だ~。)
しかし私が伊東さんに文句が言えるはずもなく、こうして私の貴重な非番の一日は嫌な感じに暮れて行くのでした。