中学生の時に、父親を亡くし、それがきっかけで不登校になってしまった生徒がいました。


不登校の後遺症なのか、人と話をするのが上手くなく、か細い声でしゃべる生徒でした。


結局中学校はほとんど行くことができなかったので、高校はある都立高校の定時制の高校に通うことになりました。


そこならなんとか入学できたのです。


そこは工業系の高校だったのですが、本人は高校に通っているうちに、日本史学や日本文学を学びたいと思うようになりました。


今まで、目標や将来の夢もなかったので、ただ漠然と高校に通っているだけでしたが、初めて自分の目標や学びたいことを見つけたのです。


いくつかの大学の文学部に狙いを定めて、高校2年生の冬から猛烈な大学受験の勉強を始めます。


高校では工業系の科目や実技などが多かったので、ほとんど学校の授業は大学受験に役に立ちません。


彼は塾に通うと同時に独学を始めました。


母親は、中学の不登校も高校での生活も、そして今回本人がやりたいという目標も、全てを受け入れていました。


本人がようやく自分なりの目標を見つけたので、一生懸命に働き、塾の費用や受験に関わる費用は絶対に不足のないように準備しました。



不登校の苦しい時代も、そして定時制に通っている時期も、なんとか自分自身で目標を見つけ、自分の力で動き出すまで、母親はただひたすらに何年も待ち続け、ただ見守ったのです。


塾の先生にアドバイスをもらいながら夜に日をついで勉強しましたが、もともと要領がいいわけでもなく、また高校受験の勉強も経験していなかったので、かなりの苦労をしました。


模試の成績も思わしくなく、受験の直前まで必要な全範囲を終わらせることができずに、受験に臨むことになってしまいました。


自分の学びたいことを学べる大学(全て難関校)をいくつも受験しましたが、ことごとく落ちました。


受験が終わっても塾に顔を見せることもなく、全ての試験に不合格になったのだと誰もが思っていたのです。



ある土曜日の夜に、母親と本人が塾に顔を見せました。


母親に促されて受験結果を全て報告してくれましたが、たったひとつだけ合格を勝ち取っていたのです。


塾の先生は震える思いで彼の報告を聞き、安堵のあまりその場に座り込んでしまったほどです。


彼は父親の死、不登校、困難な受験勉強を乗り越えて、自分の道をみつけ、その道を自らの努力で切り開きました。


彼の通う高校から、その大学に現役合格したのは史上初の快挙となりました。


その間の長い期間、母親はただ環境を整えて待ち続けただけですが、その母親の姿勢がなければ、彼に道は開けなかったのではないかと思います。


時間を耐えて、待つことのできない親があまりにも多い昨今、その母親は周囲の人間の中で、一番大きな仕事をしたのです。


何かと自分の子供に対してそれを保護し、干渉し、介入することを愛情だと考える親は多いものです。


しかし、ただただ、待ってあげることが、本人の成長に一番プラスになることがあるのだということを、世の多くの親たちには伝えたいのです。