行方不明になってからというもの、メディアでは連日捜索の模様が報道されると同時に、「しつけ」のありかたや、親の姿勢についても様々な論評がなされました。
有名な教育評論家(尾木直樹など)は、山の中に子どもを置き去りにしたことにかなりの反感をもって「あれはしつけではない」と言い切り、保護者の逮捕(虐待による)にまで言及しました。
また、他の評論家は「そもそも私はしつけという言葉が嫌いなのだ」と言って、しつけそのものを否定する発言までが飛び出しました。
そのような報道をみていると、このような評論家たちは、本当に何もわかっていないのだなと、思わざるを得ませんでした。
そしてこのような評論家たちが、日本の教育に関する言論をリードし、ますます日本の教育を悪くしているのだなと感じたのです。
そもそも発端は、家族と一緒に公園に遊びに行って、車や人のいる方に石を投げた、というこの少年の行動に始まったことです。
おそらく、保護者は口頭でも何度も注意をしたのでしょうが、それを聞き入れず、その子がいわゆる「親のいうことを聞かなかった」のだろうと思います。
このようなことは子育てをしていれば、普通の親は日常的に経験していることです。この事件について親がわが子の恐怖心に訴えて、その行動を反省させようとしたことは、通常の親であれば、手段は違えどよくやっていることだろうと思います。
その意味で「今回の親がやった行動は、やりすぎの面もあるかもしれないが、親を責める気にはなれない」という一般的な意見こそが、まさしく教育する側の素直な感想なのです。
尾木ママこと尾木直樹などは「しつけは言葉で説得して言って聞かせなければならない、恐怖心などに訴えることはしつけではない」などと発言していたようですが、全く子どものリアルな現実がわかっていないか、まともに子どもと向き合ったことのない人の発言です。
今の教育の現場の抱える困難は、教師や親が正しいことを言葉で言っても、それが素直に聞き入れられることがないことに起因しているのです。
それは学校では教師の、家庭では父親や母親の権威が、すでにずっと以前の日本の社会の現状とはまるで異なるほどに薄れてしまっていることによるもので、必ずしも教師や保護者の個人的な資質に依存した問題ではないからなのです(もちろん個人的な資質に依存した問題もあります)。
私も一人の親として、この事件の成り行きを毎日いたたまれない気持ちで見守っていました。少年の安否もそうですが、親の気持ちを考えると気が気ではありませんでした。
まだ少年の行方不明状態が続き、保護者が不安と恐怖の中にあるときに、保護者を責め立てるような言論を平気でメディアで吐き出せる評論家たちに非常ないらだちを感じました。
少年は幸いなことに「保護者のしつけの賜物」で、驚異的なサバイバル力を見せて無事に生還しました。
日曜日に家族で公園に行って、外で遊ばせ、一緒に遊ぶような家庭ですから、保護者が本気で子どもを遺棄しようとしたわけでもなかったでしょうし、すぐに戻ったところをみると本気で置き去りにしようとしたわけではなかったことは明白なのですが、保護者を犯罪者扱いするようなメディアや評論家の対応は大きな問題だったと思います。
また「しつけ」という言葉が嫌いなどという無知な言論を吐く評論家は「しつけ」が「躾」、つまり身を美しくするものであるという本当の意味も知らないのでしょう。しつけを否定したら、それは教育の根本を否定することにつながるということさえわからなかったのだろうと思います。
少年が見つかり、親が会見し、謝罪し、子どもが親に「許してあげる」という形でこの事件は終結したのですが、本来ならばまず謝るべきはこの少年だという論調を作り出さなければなりません。
人や車に向かって石を投げることは、他人を傷つけ、場合によっては死に至らしめる可能性のある行為です。これは厳しく戒められなければならないのです。
それがまずなされるべきことであり、親のしつけの部分に焦点をあてすぎて、子どもを被害者にしてしまってはならないのです。
小学2年生であれば、人や車に向かって石を投げることが悪いことであるということはわかるはずです。ですから、まずこの子どもにしっかりとそれを謝罪させた上で、保護者がその行き過ぎを謝るというのが順序です。
日本では、子どもが何かを事件を起こしても、学校長が謝ったり、場合によっては教育委員会が謝ったりします。通常は保護者も表には出てきません。
そうであってはならないと思います。まず謝るべきはその子どもたち自身です。あるいは直接的に保護責任のある保護者が謝るべきです。表に出たりメディアに出て謝罪する必要はありませんが、そのような場をきちんと設定し、謝罪をさせるという形式は絶対に必要なものだと思います。
いつもいつも子どもを被害者にしたり、過度に保護して守ったりする必要はありません。
「ならぬものはならぬ」のですから、それできちんと筋を通さなければなりません。
今回の事件の保護者の方の様子を私なりに想像すると、普段は優しくも必要な時は「身を以て」罰を与えたり、しつけをする親だったのだろうと思います。
この「身を以て」善悪を知るとか、怖さを知るということは非常に重要なことです。
このような保護者の教育があったからこそ、小学2年生でありながら、長期間の孤独や飢え、恐怖や不安に耐えうる力が育っていたのかもしれません。
教育というのは評論家のいうように綺麗な言葉で済まされるものではなく、子どもたちの現実や将来に責任のある保護者や教師が、それこそ「身を以て」行わなければならない業なのです。
そんなこともわからない言論人は、もうメディアに出て欲しくないと心からそう思います。
いつもいつも子どもたちの現実と対峙しているのは、親や教師なのですから。