親や教師は、子供たちにこうであってほしいという理想像をもっていますし、このようにして欲しいという期待をもっています。


「自分の」子供、「自分の」クラスの子供は、やはり可愛いものです。


子供たちはこのように、親や教師の庇護下にあって、守られているわけですが、いうまでもなく、いつまでもこの状態が続くわけではありません。


子供たちはやがて大人になり、親の思う方向とは違った道を歩き、親の期待する方向とは別の生き方を選んでいきます。


親や教師は、「自分が」一生懸命に育てた子供たちですから、それを自分の庇護下に置き続けたいという願望と同時に、早く一人前になって自立し、飛び立って欲しいという願望とが交錯する、矛盾した気持ちを持ちます。


それでも「自分が」育てた子供なのだから「自分の」思うような方向に成長して欲しいという気持ちは持っています。


確かに、子供たちは誰かから生まれて、誰かの手にかかって成長していくわけですから、間違いなく誰かの子供なのですが、親はやがて「自分の」子供たちに対して、この「自分のもの」という所有代名詞を外さなければならなくなります。


子供たちは学校に行き、社会に出ていくうちに、実に様々な人びとの影響を受けて育てられ、成長していくわけですから、もう最後は「誰か」という特定の人の手によって育てられたとは言えなくなってくるのです。


そしてそれが、大人になるということでもあるのです。


親が「自分の」子供を見るときに、この「自分の」という気持ちが薄れて、子供を一個の独立した人格として見ることができた時に、親は子離れできますし、子供もまた親離れできるのです。


自分から生まれ出たものが、自分のものでなくなり、それを公的な存在として認識できるということが、教育にはどうしても必要です。


「自分が」育てたのだ、とか「自分が」影響を与えたのだ、などと考えるのではなく、「自分」を外した世界の中で子供を見ることができた時に、その子育てや教育は成功したと言えるのです。