育てるとか育むという言葉の中には、「時間」を耐えるという意味が含まれています。
例えば、今は親に反抗し、言うことを聞かず、わがままな子供であっても、いつかは親の苦労を理解し、親に感謝したり、親の気持ちを理解できる時がくるものです。
今はできないことが、できるようになったり、
今は欠点だらけでも、それを克服したり、
今は悪い子に見えても、とてもいい子に変わったり、
「時間」を経て、人間が変わっていくものであること、成長していくものであること、その時間軸の中に、人の成長や素晴らしき変化を見ていくことが、教育の本質なのではないかと思います。
その本質にもっとも反するもの。
それは「短気」ということです。
短気は人を決めつけ、レッテルを貼り、結果を急ぎ、子供の可能性をその場で否定し、切り捨てます。
子供の現状に悩む教師も、保護者も、そして社会や国家も、このような短気な発想でもって、教育の方法や教育の内容を考えてはならないのです。
反抗期の小学生や中学生などを見て思い浮かべるべきことは、この子たちが大きくなって、やがて様々な経験をして、社会に出て親になり、立派に成長した姿です。
なぜか、そのイメージをもつと、今のわがままや反抗や非行も、ある種の可愛げに見えます。
善悪の問題はきちんと教えなければなりませんが、それは教育という、時間を含んだこの大きな営みの中で行なわれていく、一つの側面にすぎません。
教育の世界から「短気」を取り去ることができれば、教育という営みは、もっと奥の深いものになるはずです。