先日、ヨーガを受けに行った時のこと。
銀座〜東京ではデモ真っ最中
スタジオの周りに物凄い数の警察官の方がいらっしゃって、物々しい雰囲気。
着替えて準備を済ませ、スタジオ内に入る。
外では穏やかではない声が飛び交い、中まで緊迫感が伝わってくる。
混沌とした雰囲気の中、スタジオの中で瞑想。
こんな状態だからか、不思議な感覚がおきました。
命を繋ぐことでさえ必死だった時代。
かつては、毎日をこんな不安の中で過ごしていたのでしょう。
平和な日本でさえも、心穏やかでないことも起きてはいます。
しかし、法が整備されていなかった時代、
私達の想像を絶する理不尽な出来事が起きていた。
だからこそ、先人たちは瞑想をしていたのかもしれない。
自分達の力ではどうにもならなかった立場や出来事。
何故、そこに生まれ、何をすべきだったのか?
制限された環境の中から、自分に課された指名を探し、
必死にそこに存在したのではないだろうか。
人間が存在した意味などもあるかわからない。
おそらく、そこにいつの間にか生まれ、
どこかでいつの間にか死んでいく。
自分に与えられた指名を探す理由は、
「今」この瞬間を生きていると実感したいからなのかもしれない。
インド哲学二元論の観点からすると、純粋意識(真我)以外、
この身も含めすべて汚れているといいます。
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द्रष्टृदृश्ययोःसंयोगोहेयहेतुः।
draṣṭṛ-dṛśyayo-samंyogo-heya-hetuḥ
~ヨーガスートラ(Ⅱ-17)より~
見るものと見られるものとの結びつきこそ、
回避すべき苦の原因である。
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見るものとは、真我。
見られるものとは、それ以外のもの。
自分を自分だと思うことから、そこに苦が生まれる。
ブッダからも、生老病死と教えを残していただいてますよね。
では、自分は自分だと思わなければよいのか?
それでは今ここにいる自分は成り立たない。
高次の次元で物事を見ることが出来れば、
自分の身の回りで起きている事が、
「自分と同じ誰か」によって観る事が可能になる。
過去に存在したと思われる先人たちは、
明日生きられるか分からない状況の中で、
この世の出来事や宇宙全体を観ていたのではないだろうか。
新しい時代の幕が上がり、時間と仲良く手を携えて歩いていく日本。
平和な中で瞑想出来ることは、本当に幸せな事です。
穏やかな状況の中でも、心に暴れ馬が存在している人はいます
しかし、必要でない事は一つもなく、
むしろ刺激や衝突は私達の平和には必要なこと。
今この空の下で眠る人々が、どうか平和でありますように。
令和への祈りを込めて。
ॐ शान्ति: शान्ति: शान्ति: