円山公園までのウォーキング。
 
今日の目的は円山公園内にあるという
岩村通俊像との対面。
 
北海道神宮から、円山公園へ。
 
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どこにあるのかな?
円山公園でいつも散歩するところにはないわけだし・・・。
銅像を探すには、円山公園は広すぎる。
もうすでに、一万歩達成してるから、これ以上歩く必要もないし(爆)
 
早速、円山公園の管理事務所へ。
地図をいただいて、いざ・・・。
 
初めて歩く道。
 
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見えて来た~
 
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▼岩村通俊
 
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 何故今頃急にこの像(人物)に興味を持ったのか、
 
初代北海道庁長官。
北海道の開拓に大きな貢献を残した人物。
 
という理由ではなく、
 
岩村精一郎(高俊)のお兄さんだっんだ~ 
 
という感慨から(笑)
 
最近読んだ『王城の護衛者』の短編集の中収められている『英雄児』、
長岡藩士・河井継之助が主人公の小説であるが、
ここに登場したのが岩村精一郎。
 
北越戊辰戦争において長岡藩家老の河井継之助と会談(小千谷会談)するが決裂し、
開戦の端緒となったことで知られている人物。
 
当時23歳、「別段の才のある男ではない」(文中)岩村が、「「謙信の再来であろう」という者もあった」(文中)の河井と交渉というのは土台無理だった、というのがおおかたの見方らしい。
この小説を読んで岩村精一郎に興味を持って、ちょっと調べてみたら、
岩村通俊の弟だということだったわけ。
 
そしてまた、こんな情報もゲット。
岩村精一郎は新選組の近藤勇の処刑を最終的に決定した人物!らしいというのだ。
23歳の岩村精一郎にそんな権限が?!
横倉喜三次の日記にも岩村が処刑の最終決定を下したと書かれているそうだ。
そのへんの詳しい内容は
慶応四年新撰組近藤勇始末』あさくらゆう著
という小説に書かれているそう。
近藤勇が斬首刑になった翌4月26日に北越方面に出発し、
5月2日に河井継之助との小千谷会談に臨んでいるとか。
そんな背景を知ると、ますますあの会談は決裂しかなかったのだと思ってしまう。
 
さて話は銅像の人物に戻るけれど、
 土佐藩の陪臣岩村英俊を父に長男として生まれた
 
岩村通俊は、な、なんと岡田以蔵の下で剣術を学んだという。
 
(『王城の護衛者』の最後に収められている『人斬り以蔵』の以蔵は怖すぎる・・・。)
 
そして特記すべきことは
開拓使大判官としての彼が、移住者や土木作業員の慰安のために「薄野遊郭」を設置したということ。
 
それが、今の「ススキノ 」歓楽街となったわけ。
 
なるほど~ どおりで銅像が北海道に3つもあるわけだ。違う?(笑)
他に、大通り公園と旭川の公園にも銅像があるという。
 
 
 
それにしても岩村さん、初代北海道庁長官として、
今の北海道の危機的経済状況どう思われますか?