森田療法は自分の心とありのままに向き合うことを指導する
神経質に対する精神療法です。
【はじまり】
森田正馬は1874年(明治7年)1月18日、父正文22歳、母亀女26歳の
長男として、高知県香美郡兎田に生まれました。
森田は小さい頃よりよく日記を書きました。それは「我が家の記録」として
残り、森田の精神的軌跡を辿ることができます。その記録によると、
9歳から10歳の頃、村の寺であった真言宗金剛寺に張ってあった極彩色
の地獄絵を見て、その恐ろしさにおののき、以来死の恐怖におののき、
眠れぬ夜を過ごすこともしばしばであったといいます。
そのようなこともあってか、小学校高学年まで夜尿があったといいます。
14歳時、高知県立中学に入学し、寄宿舎生活をするが、動悸が何度も
起こり、心臓病と思い込み、高知県立病院に2年間通院しています。
学業も不振で、本来なら5年で卒業するところを7年かかって卒業しています。
すでにこの頃よりパニック発作、パニック障害があったと思われます。
高校時代はおさまっていたパニック発作が、大学入学後より再燃
するようになりました。極度の不安のため、土佐から母親を呼び、
大学の寄宿舎を出て、母親と一緒に下宿生活をするようになります。
それでも、母のいる傍で何度かパニック発作を起こし、急患で近医に
往診を依頼することがありました。大学病院内科も受診し、1899年の
春休みに1899年(明治32年)の春休みには、転地療養のため箱根に
滞在しています。
大学病院内科も受診し、入沢遠吉教授からは「神経衰弱兼脚気」という
診断を受け、投薬されています。
その後パニック発作はおさまっていましたが、常習の頭痛に悩まされるなど
心身の不調が著しく、大学2年時の定期試験に集中できない時期が
ありました。
ひとまず休養して補欠試験で受験しようと弱気になっていたところ、
友人に諭され必死な気持ちで受験しようと決心しました。
その頃、約束していた郷里の父親からの仕送りが途絶えていて、
父親に対する面当てに死んでもいいという気持ちになり、開き直って服薬も
やめ、体を大事にすることをやめ、睡眠時間を削り、目前の目的である試験の
ための勉強に集中しました。
体はどうにでもなれとどのような症状でも耐えると覚悟し勉強していますと、
不思議なことにパニック発作は生じてきませんでした。
教科書やノートの内容がよく頭に入るようになり、試験結果は119名中25番と
上位の中に入ることになりました。
この結果は、本人のみならず周囲からも瞠目を浴びました。
この「恐怖突入」体験と「ありのまま」に受け入れる姿勢の大切さを悟り、
この心身の不思議な体験が、精神医学の道へ進ませる契機となり、
森田療法を生み出す体験となりました。
この体験の後、森田はパニック発作を起こさなくなり、
パニック障害を克服することになりました。25歳のことです。
近年はうつ病などの疾患に対して森田療法が適用されることもあります。
森田氏は薬を使いませんでしたが、現代では薬を併用することが多くなりました。
元来入院が基本でしたが、最近では通院が中心になりつつあります。
そのため重度や長期の人は入院、軽度で短期の人は通院が基本になっています。
またそれ以外に自助グループ「生活の発見会」や会員制掲示板「体験フォーラム」など
の利用方法もあります。なお日本国内だけでなく、海外でも中国を中心に活動が
展開されています。
【どんなもの?】
神経症が発生する上で起こる不安や恐怖心とは、つまるところ、死の不安や恐怖で
あり、有限の「生」を生きる人間にとって避けることのできない普遍的な感情です。
そして何故そのような不安や恐怖を感じるかといえば、その裏には
より良く生きようとする人間本来の欲望(=生の欲望)が存在すると森田氏は
考えたのです。
そして、そうであるなら病気に対する死の恐れの裏には、健康でありたいと
する欲求があり、不安や死の恐怖は生の欲望と表裏一体のものであり、
どちらも人間性の事実としてそのまま受容する事が人間本来の自然なあり方だと
森田氏は考えたのです。
すなわち、それにはまず「あるがまま」という言葉に集約されるように、
不安や恐怖心など、心や身体にわく自然な感情や症状を排除しようとするのではなく
そのまま自然にしておくという態度を養うことです。
ところで「あるがまま」とは単なるあきらめとは違う積極的な意味があります。
すなわち「あるがまま」とは、不安を抱きつつも、家事や仕事、勉強など
今日一日のやるべき事をできるだけ建設的にに行う具体的な日々の営みを
行うことを意味しています。
このようなプロセスによって目指す森田療法の治療目標は、症状に
執着したあり方から脱却し、そのままの自分を受け入れて成長させること、
そして生の欲望を発揮して自分らしい生き方を実現することです。