今日、Ryncoさんのライブに行ってきました。
http://ameblo.jp/angelo-angela222/

どうやら、私の中の涙のタンクがたまっていたらしく、
自然と涙が止まらなくなりました。

Ryncoさんの声は、ことばがなくても、私の心を揺さぶるのに
十分でした。

自分の周りにこびりついていたものが、
乾いた紙粘土のように、パラパラと落ちて来て、
最後に残った私の小さなエネルギーは、
それだけで立っていることができなくなって。

家にある冷蔵庫にアースがついているように、
誰かとつながることで、エネルギーを放出しなければ、
どんどん熱くなってしまうような、
一人では耐えられない、誰かとつながりたい、
そんな気分になりました。

普段、自分では無理をしていたつもりはないんだけどな。

「寄りかからず」という詩を茨木のり子さんが書いていたけれど、
自分ではそんなつもりでいたのだけれど、
気づかないうちにずいぶんと背伸びをしすぎていたのかもしれない。

たまにはいいよね、こうやって洗い流すのも。

これは、スペイン語でもラテン語でもない。


宮沢賢治 『永訣の朝』の一節。


いつも賢治のことを心配し、近くにいてくれた妹のとし子が

亡くなるときの様子を歌った詩。


『おら おらで しとり えぐも』

 -私は私一人で逝きます。


他にもとし子のことばは何度も詩の中に出てくるのだけど

ローマ字で書いてあるのはこのことばだけ。


初めてこれを読んだとき、私はラテン語だと思った。


ラテン語で 「Ora」 とは 「祈りたまえ」 という意味。

Ave Maria では この Ora を繰り返すことも多く、

とし子が「私のために祈ってください」と

言っているかのように思った。


もちろん、ほんとはそんなことあるはずない。

賢治は熱心な仏教徒だったから。


賢治はきっとこの言葉だけでも、

正しい発音でほんとのとし子のことばで伝えたいと思って

ローマ字にしたのかもしれない。


けど、そこに偶然生まれたこの「祈りたまえ」という意味は

ただの偶然なのではないような気がしたんだ。


本の中の ことば が むくっと 起き上がるとき。


 声というものを使って

 ことば に 「感情」 「性別」 「年齢」 という要素が加えられる。


 でも、実はそのとき 本の中には 情景 が取り残されているので

 起き上がった ことば だけでは 場面 は成立しない。


 場面を限定するのは 周囲のことば かもしれない。


 それとも 視覚的な要素 かもしれない。


 どちらにしろ、起き上がった ことば にはまだまだ想像の余地がある。




本の中の ことば が もぞもぞと 動くとき。


 それは、 ことば が ことば 

               ことば 

               ことば  

               Kotoba   になったり


 なんだかよくわからないけど、なんだかいつもと違う感じ。

 

 なにがあったんだろうと、まだまだ想像したくなる余地がある。