生活の安定
この世の終末かと恐れられた紀元100年も無事に過ぎ、人々が胸をなで下ろしていたその頃、ヨーロッパは終末どころか、後に全世界に普及するに至る文明を築き上げる第一歩を踏み出していた。開墾や農具の改良、そして農地を三分割して冬穀-夏穀-休閑を繰り返すという三圃農法の導入により穀物の生産性が高まり、西ヨーロッパの人口は増大した。また主穀生産力か安定したため、特産物(例えば羊毛やワイン)の生産に力を入れることが可能となり、それらを商う市場が成立し、また毛工業が発達した。このような発展から生まれた生活の余裕は芸術を支える基礎となる。ドイツでもこの頃ようやく、記録や布教といった目的を持たぬ
まさに芸術のための文学が生まれたのである。
神聖ローマ帝国
この時代の政治状況はよく、二つの中心を持つ楕円に例えられる。二つの中心とはローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝で、この二者がそれぞれ聖界と俗界を支配する中世的な世界秩序であった。皇帝位を担っていたのはザクセン朝オットー1世に始まる歴代ドイツ王であった。ところでドイツでは国王が高位聖職者を任命するのが慣例だったので、ザクセン朝そして続くザーリアー朝の皇帝は自分が選んだ人物を司教や修道院長として送り込み、教会や修道院のもつ軍事・経済、そして知的能力を帝国行政に活用して一大帝国を築いた。
叙任権闘争
しかし帝国の政策は、世俗権力による教会支配を排除しようとするローマ教会と衝突し、教皇グレゴリウス7世が俗人による聖職者の任命を禁止したことから、皇帝と教皇は全面的に対立することとなった。これを叙任権闘争と呼ぶ。教皇は皇帝ハインリヒ4世を破門し、皇帝に対する誠実宣誓は無効であると諸侯に向かって宣言した。
これによって危機に立たされた皇帝は1077年、カノッサに滞在中のグレゴリウスを訪ね、雪の中に立ちつくして許しを乞わざるをえなくなった(カノッサの屈辱)。
破門を解かれたハインリヒは直ちに攻勢に転じ、グレゴリウスを廃位してローマを占拠し、自派の教皇を立てる。グレゴリウスは失意の内にサレルノで没するが、グレゴリウスの後継者ウルバヌス2世が皇帝の息のかかった教皇を追放して、再び皇帝に対抗する。叙任権闘争はその後1122年ウォルムス協約によって一応の決着を見ることになるが、帝国は教会守護という本来の存在理由を失っただけでなく、ここに生まれた教皇派と皇帝派の対立はドイツ国家統一を妨げる要因として、その後のドイツの歴史に大きな影を落とすことになる。
十字軍
ローマ教会のさらなる権威拡大を目指すウルバヌス2世は1095年クレルモン公会議で、異教徒の支配下にある聖地エルサレム奪回を呼びかけた。翌年第一次十字軍が聖地へ向かい、1099年エルサレムを占領する。この後1270年に至るまで繰り返し遠征が行われた。当初の目的である聖地回復は一時的にしか成功しなかったが、十字軍はヨーロッパにさまざまな恩恵をもたらした。
まず遠征した人々が東ローマ帝国やアラブなど当時ヨーロッパと比べて圧倒的に高度な文明を目のあたりにしたこと、そして人の行き来とともに貿易が発展してさまさまな文物がヨーロッパに入ってきたことである。またドイツにとっては、国内を通過したり戦地でともに戦ったイングランドやフランスなど、発展した宮廷文化に接する機会でもあった。
騎士の登場
ザーリアー朝断絶の後1138年にシュタウフェン朝が皇帝位を継いだ時、皇帝の権威は復活し、ドイツは輝かしい時代を迎えるかと思われた。実際この王朝時代にドイツ宮廷文化は最盛期を迎え、フリードリヒⅠ世(赤髭王)が1184年マインツで催した聖霊降臨祭の祝宴の豪華さは、年代記録者や詩人たちによって後々まで語り伝えられている。この王朝を支えたのがザーリアー朝の聖職者に代わって行政官として活躍した騎士(Ritter)であった。
本来「戦う人」であった騎士は、十字軍遠征によって東方のイスラム文化やヒザンティン文化、またより先進的なフランス宮廷文化と接した経験から知的に成熟し、単なる戦士ではなく独自の倫理道徳観を持つ集団に変貌していった。彼らは自らを「神の騎士」、つまり名誉を重んじ、敵に対しては勇敢に戦い、婦人や子供など弱者を救済し、キリスト教徒として神の掟を守る存在と認識していた。
騎士の芸術
騎士が担ったこの時代の文化は、一躍時代の主役となった彼らの心情を反映して理想主義的な風合いが強く、文学や芸術を通じて理想的な騎士とは何か
、騎士としていかに生きるべきか、が表現された。マインツ,バンベルク,ナウムブルクの大聖堂など優れた建築も数多く生み出されたが、この時代すでにゴシック様式に移行していたフランスとは違い、ドイツではなおもロマネスク様式が採用されていた。このことは新しい様式を取り入れる際のドイツの保守性を示していよう。
大空位時代
さてシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世は叙任権闘争によって傷ついた皇帝の威信を回復すべく帝国統一事業に乗り出したが、「帝国」の中にはイタリアも含まれていたためローマ教会の反発を買い、また徐々に力を伸ばしつつあったイタリア諸都市とも対立した。教皇は帝国内の諸侯に絶えず働きかけ、教皇派といわれる勢力を作り上げて皇帝派に対抗させた。この混乱の中フリードリヒ2世が急逝したとき、ドイツはもはや皇帝を選ぶことができなくなり、いわゆる「大空位時代」(1256-73)に入った。
ドイツの混乱
皇帝の不在により二つの中心を持つ楕円という中世ヨーロッパの秩序は崩壊した。イングランドやフランスは国王が中央集権化を推し進め、近世国民国家への胎動期に入る。しかし皇帝が国王であったドイツは聖俗諸侯が相争う政治的混乱期に突入し、その結果近代的統一国家としての成立が遅れることになる。
大空位時代の後、1273年にはハプスブルク家のルドルフⅠ世が国王に選出された。当時のハプスブルク家はチロル地方の小領主に過ぎなかったが、ドイツ国内の対抗勢力、教皇、フランスなどとの政争に勝利し、後にオーストリアはおろかスペイン、そして新大陸をも含む大ハプスブルク帝国の基礎が築かれたのである。しかしそのハプスブルク家をもってしても、ドイツ国王の称号を持ちながら、ドイツを統一することはできなかった。
「死を想え」
14世紀に入ると飢饉やペストの流行が度重なり、人口増加の時代は終わった。1348年のペスト流行によってドイツの人口は3分の1にまで減少したという。ペストに対して人間は神に祈る以外何らすべを持たず、生者は死者と隣り合わせで生きることになった。
死体が路上にあふれたこの時代、「死を想え」(memento mori)が標語となり、老若男女が死神とともに踊る「死の舞踏」のモチーフが広まった。また頭巾をかぶり、背に十字の印のついた衣をまとって、鞭で自分を打ち、血を流しながら裸足で町から町へと練り歩いて自らの罪を償おうとする鞭打ち苦行団も現れた。「泉に毒を撒いてペストを流行らせた」としてユダヤ人が各地で迫害されたのもこのころである。
都市の発展
しかし一方で力強く発展する都市の姿も見られた。13世紀半ばにリューベックを中心とする北ドイツ諸都市が作ったハンザ同盟は14世紀末には最盛期を迎えていた。もともと商人の結合であったハンザはバルト海と北海の貿易を独占し、ついには独自の軍事力を持ち、団結して政治力を行使する都市同盟へと変貌していった。有力な都市はリューベック、ハンブルク、ブレーメンなどで、ノヴゴロド、ベルゲン、ブルージュ、ロンドンの在外商舘を活用し、東西貿易を中継して発展した。
このように都市が同盟し自らの政治・経済上の権益を守らねばならなかったのも、統一国家が存在せず、諸侯も都市も完全に支配するだけの力を持っていなかったからである。こうしてドイツは政治的な混乱を引きずったまま宗教改革を迎えることになるのである。
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