ドイツ文学の誕生 | 扶氏医戒之略 chirurgo mizutani

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すべて歴史的な物事の始まりは茫漠としている。ドイツ文学も大昔、いまドイツと呼ばれる土地に生きている人々のさまざまな言語的営みの中から、次第に姿を現してきた。前節で読んだ「ヴェッソブルンの祈り」も、そうしたものの中から長い年月を生き延びて私たちの手元に届いたわずかな断片の一つである。
その茫漠とした始まりを手探りにしてみるとき、見えてくるのは、カール大帝の時代である(フランクフルト王在位768-814,西ローマ皇帝在位800-814)。ライン河流域から始まった西ゲルマン族の国、フランク王国のカロリング朝を継いだ彼は、西ヨーロッパのゲルマン諸族を統合して、汎ヨーロッパ的帝国を築いた。彼は帝国の普遍性を確立するためにキリスト教、古典古代文明(ギリシア、ローマ文化)、そしてラテン語の振興に努めたが、それとともに「父祖伝来の言葉の文法」を研究させ、「古き時代の王たちの功績と戦いをうたう野蛮な太古の歌」を書き記させた。
残念なことに、この「野蛮な太古の歌」は今日に伝わえられていないが、カール大帝の勅令は、古代の口承文芸から文学で書かれる文学への第一歩であった。この時期、現在のドイツ語と共通の特徴を持ち、ドイツ語の祖先と見なしうるゲルマン語、今の呼び方でいえば、高古ドイツ語(Althoch-deutsch 古い時代に高地地方で話されたドイツ語)も、さまざまなゲルマン諸語の中から次第に姿を現していた。「ヒルデブラントの歌」断片 (810-20頃)も、そうした言語で書き留められた貴重なゲルマン英雄歌の形見である。
だが古代ゲルマン英雄歌「ヒルデブラントの歌」においても、口承文芸を文字に書き留める過程でキリスト教の影響が入り込んでいるのが感じられる。この時期、ドイツ語文学の形式と内容の土台を作るのは、何よりも、キリスト教的内容を持つラテン語文献の翻訳ないさは翻案である。イエスの生涯を歌う長編叙情詩「ヘーリアント」(830年頃)や、オートフリートの「福音書」(863-71頃)が、その時代から私たちのところに伝わっている。
カール大帝による汎ヨーロッパ的帝国はやがて東西に分裂し、ザクセン朝のオットー大帝が、その東部分を受け継ぐ形で、現在のドイツの遠い前身となる神聖ローマ帝国をつくった(962)。ザクセン朝(919-1024)の時代、公的・文学的レヴェルではラテン語が圧倒的だったが、やがてザンクト・ガレン修道院の修道士ノートカー(950-1022)によるラテン語文献の優れた翻訳が現れる。キリスト教文献から一般学術書、文学にまで至るその膨大な翻訳は、ドイツ語に新しい表現の力を与えた。神聖ローマ帝国の成立により共通の言語圏が意識され始めたという事情もまた、ドイツ語の自立に力を貸したのだろう。もともと「民族・民衆の」を意味するゲルマン語からゆっくりと現れてきた。現代人ドイツ語のdeutschという言葉の原型も、この時期ようやくもとの意味から独立して、「ドイツ(語)の」という意味を獲得し始めていた。
ザクセン朝を継いだザーリアー朝(1024-1125)の時代になると、ドイツ語による聖書物語、聖人伝などが数多く現れ、それを記す言葉も、古高ドイツ語の複雑な語尾変化が大幅に単純化された中高ドイツ語へと移行する。こうして、やがてザーリアー朝(わずかな空位の時期をまたいで)継いだシュタウフェン朝(1138-1254)の下で、ドイツ文化とドイツ文学が最初の見事な開花期を迎えるための用意は、ようやく整った。
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