騎士と宮廷の時代 | 扶氏医戒之略 chirurgo mizutani

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身近で関心は高いのに複雑・難解と思われがちな日本の医療、ここでは、医療制度・外科的治療などを含め、わかりやすく解説するブログです。

ドイツ語の区分
ドイツ語の地域別には高地・低地(hoch/nieder)に分類される(高地は南ドイツ、低地は北ドイツを指す)。低地ドイツ語はハンザ同盟の発展とともに北ヨーロッパで広く通用する国際語となったが、16世紀以降公用語の地位を高地ドイツ語に取って代わられ、現在に至るまで方言に甘んじている。時代順には古・中・新ドイツ語(alt/mittel/neu)に分かれる。
古ドイツ語時代は8-11世紀、中ドイツ語時代は11-14世紀、それ以降が新ドイツ語時代である。というわけでドイツ語は時代・地域別に大きく六つに分類されることになる。現在標準語として使われているのは新高ドイツ語(Neuhochdeutsch),そして中世文学は、南ドイツを主な勢力基盤としていた神聖ローマ帝国下で生み出されたものなので中高ドイツ語(Mittelhochdeutsch)によって書かれているということになる。

ラテン語文学
ところで中世ヨーロッパでは、教会にせよ宮廷にせよ、公用語として使われたのはラテン語であった。古代ローマ時代から数々の著述家によって磨きをかけられてきたラテン語に、民衆の言葉であるドイツ語が表現力の点で太刀打ちできるはずもなかった。それゆえ古高ドイツ語時代、つまり神聖ローマ帝国初期の文化の担い手は公式文章のみならず文学もラテン語で書いた。
彼らは主に聖職者であったが、その作品は宗教的なものに限らず、後の騎士叙事詩の先駆けとなるような作品もある。またこの時代ドイツ語文学が全くなかったというわけではなく、民衆に対する布教のためキリストの生涯をゲルマン文学古来の形式(例えば行頭の音を合わせる頭韻)とゲルマン人の習俗に合わせて語る「ヘーリアント」(Heliand,830頃)や、ドイツ文学としては初めてラテン語韻文と同様の脚韻(行末の音を合わせる)を踏む詩形を用いたオトフリート(Otfried)の「福音書」(Evangelienbuch,863-71頃)、また世俗の文学としては英雄ヒルデブラントとその息子の悲劇的な戦いを描いた「ヒルデブラントの歌」(Hildebrandslied.810-20頃)などがある。

宮廷騎士文学
さて11世紀にはいると母音とくに語末音が簡略化された結果、脚韻を踏むことが容易になった。またそれまで聖職者に独占されていた文学の世界に、騎士階級が加わった。彼らの作品は「騎士による、騎士についての、騎士のための」もので、舞台が宮廷であることから「宮廷叙事詩」(Höfisches Epos)と呼ばれた。
この時代の叙事詩について確認しておかなければならないのは、作品が常に注文によって創作されたということである。詩人には主題を選ぶ権限はなく、パトロンである王侯から原典を与えられ、それを基に詩作した。現代の我々には想像のつかないことだが、当時作品のオリジナリティは評価の対象とならなかった。逆に語り継がれた物語こそが本物とされ、詩人の課題はそれをいかに巧みに語るかにあった。原典として与えられたのはほとんどの場合、フランスの宮廷文学であった。

三大叙事詩人
宮廷叙事文学最盛期の詩人としては「アーサー王物語」2編とキリスト教の奇蹟譚2編を書いたハルトマン・フォン・アウエ「パルツイヴァール」のヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ、「トリスタン」のゴットフリート・フォン・シュトラースブルクがいる。ハルトマンの明晰、ヴォルフラムの諧謔、ゴットフリートの流麗な文体はそれぞれ後の叙事詩人たちに大きな影響を与えた。

英雄叙事詩
またこれらフランス系の宮廷叙事詩と時を同じくして、その影響を受けつつ「英雄叙事詩」(Heldenepos)が成立した。代表作は「ニーベルンゲンの歌」や「クードルーン」(Kudrun,1230年代)。作品の基となっているのは民衆の間に口承で伝えられてきた民族大移動時代のゲルマン伝説や英雄詩で、この時代に詩人の手によって作品として完成されたものだが、詩人が作品内で自らの名を誇り高く明かす「宮廷叙事詩」とは違って、「英雄叙事詩」は匿名で書かれるのが常であったから、作者は確認されていない。

都市の文学
大空位時代(1256-73)以降神聖ローマ帝国の権威は失墜し、それを支えていた騎士階級の活力も衰えてきた。文学の舞台は宮廷から、商工業の発展によって次第に富と実力を身につけつつあった市民の暮らす都市へと移行する。都市の教養人は騎士文化に憧れ、自ら騎士のように振る舞い、騎士文学を愛好したが、商工業に携わる彼にとって騎士道はしょせん他人事であったので、「騎士としていかに生きるべきか」といった主題は忘れられ、冒険活劇物が取って代わった。また文学が市民へと開かれていくにつれて、その形式も韻文から散文へと移行していった。しかしそれ以前にも神学、法学など学問書は散文で書かれていた。とりわけマイスター・エックハルトを中心とする神秘主義者たちの説教や論文は、その後の散文の発展に多大な貢献をした。
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