11日朝、ニューヨークの国連本部で開かれる北朝鮮の人権問題を考えるシンポジウムに出席し、アメリカを訪問中で拉致問題担当大臣を兼務する菅官房長官とともに拉致問題への理解を訴えをお訴えされました。
横田めぐみさんの弟の拓也さんと、田口八重子さんの長男の飯塚耕一郎さん
そして特定失踪者家族会の幹事で秋田美輪さんのお姉さま 吉見美保さんが
渡米されて出席されました。

そして 

14日
スイス・ジュネーブで開かれた国連の人権理事会で、北朝鮮に対して日本の拉致被害者の即時帰国に向けた行動を取ることなどが勧告されました。
 国連の人権理事会で北朝鮮の人権状況について約5年ぶりに審議が行われ、14日に260を超える項目の勧告が採択されました。


15日 北朝鮮は拉致問題解決の国連勧告を無視しました。
拉致問題の勧告「拒否」と北朝鮮

2019/5/15
©一般社団法人共同通信社

 【ジュネーブ共同】北朝鮮の韓大成駐ジュネーブ国際機関代表部大使は14日、国連人権理事会の作業部会で演説し、日本人を含む外国人拉致問題の早期解決を求めた勧告を「拒否する」と述べた。

北朝鮮と条件なしで対話すると安部首相は言いはじめました。

5月24日には
東京で 特定失踪者、拉致被害者のご家族らが
全員、拉致被害者、特定失踪者の顔写真をもってデモ、国会要請、集会をされます。
私は参加できませんが、このデモが大きく報道され
政府が真剣に動き、拉致問題が解決することを願います。

報道では、NHKは秋田美輪さんのお姉さま、吉見美保さんのお名前を
出しませんでした。
写真を出しながら お名前を出さない報道姿勢は問題です。










下記は、特定失踪者荒木和博先生のブログから
秋田美輪さんのお姉さま 吉見美保さんのお訴えです。




荒木和博BLOG

2019年5月13日
吉見美保さんスピーチ【調査会NEWS2981】(R01.5.13)
 すでに報道されているように5月10日菅義偉官房長官兼拉致問題担当大臣も参加してニューヨークの国連本部で開催された日本政府主催のシンポジウムには特定失踪者家族会から幹事で秋田美輪さんのお姉さん、吉見美保さんが参加しました。以下吉見さんのスピーチをお知らせします。この音声は後日「しおかぜ」でも北朝鮮に向けて放送されます。

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 国連でのシンポジウムへお招きいただきありがとうございます。私は特定失踪者 秋田美輪の姉 吉見美保と申します。



 特定失踪者とは北朝鮮による拉致の可能性の排除できない失踪者のことです。1997年2月、ここにいらっしゃる横田拓也さんの姉めぐみさんが拉致されていることが国会の質問と報道によって明らかになりました。それがきっかけとなって救出のための国民運動が始まり、2002年9月に訪朝した小泉総理に当時の金正日労働党総書記が拉致を認めるに至りました。めぐみさんについて北朝鮮は死亡したとの嘘の情報を伝えてきましたが、一方で5人の拉致被害者を帰国させました。その中に日本政府が拉致と思っていなかった曽我ひとみさんがいたため、原因不明の失踪者をかかえる多くのご家族から「私の家族も北朝鮮に拉致されたのではないか?」との声が上がりました。2003年にそれらの失踪者を調査するための民間団体、特定失踪者問題調査会が設立されましたが、現在同会にある特定失踪者のリストは約470人に上ります。さらに日本警察は特定失踪者の数を約900人と発表しています。



 特定失踪者の事件を調べて行くと偶然とはいえない共通点が浮かび上がってきます。



・埼玉県川口市や神戸市灘区のように同じ地域に関係した多数の失踪者がいる。

・1960年代には中学生や高校生が多く、1970年代にはカップルや親子での失踪が多い。

・1980年代中頃と1990年代初めに全国で不審な若い女性の失踪が集中する。

・職業的には看護師や衣服関係、電話に関わる仕事をしていた人の失踪者が多い。



 これは一部にすぎませんが、場所も時間も異なる失踪者に不思議な共通点があるのです。そしてそれらの中には北朝鮮での目撃情報や写真が出てきた人も少なくありません。



 私達特定失踪者の家族の願いは、「北朝鮮にいる家族を取り戻したい」それだけです。そのためにニューヨークまで参りました。どうぞ、北朝鮮に今も救いを求めて待っている拉致被害者の一例として私の妹の話を聞いてください。



 私の妹は1985年12月4日13時ころ、通っていた兵庫県神戸市にある大学の門前で友人と別れてから、行方不明です。21歳でした。12月5日朝8時に家に警察から電話がはいり、同じ兵庫県ですが、180km離れた日本海側の海岸で靴と鞄が見つかったと連絡がありました。妹はこの海岸へ行った事はありません。ここは、当時地元の人しか知らない浜でした。

 3日間、警察、海上保安庁、地元の漁師の方々が船を出して下さり、ダイバーもCの字形の湾内を潜って遺体を探しましたが、見つかりませんでした。その入江では、入水自殺した人がいても、遺体が外海へ出るまでには、半年かかると地元の方達は当時おっしゃいました。

捜索は打ち切られ、新聞には「自殺か?」と報じられました。

 しかしながら、この弁天浜へ行くための大阪からの急行券が浜で見つかった鞄に残されていましたが、ひとつ手前の急行停車駅までの券でした。距離が足りません。また、靴と鞄は発見された時濡れていませんでしたが、12月5日の早朝には雨が降っていたのです。

 この3つの事実は、本人がそこに行ったのではなく何者かによって、捜査の撹乱のため作為的に靴と鞄が浜に置かれていた可能性を示しています。同様の捜査の撹乱と思われる事件は特定失踪者で多数起きています。特定失踪者問題調査会では美輪を拉致の可能性の高い失踪者としており、私達家族はきっと北朝鮮で生きている、と信じています。



 妹は、読書と料理の好きな女の子でした。机の周りには、アンデルセン大賞をとった児童文学や、日本の古典がおかれ、母の持っていた料理本の目的の料理のレシピが載っているページを覚えているくらい料理も好きでした。北朝鮮には何の関係もなく、興味を持っていたわけでもありません。自ら望んで北朝鮮へ行くとも思えません。先程述べた偽装工作から考えて無理矢理北朝鮮に連れていかれたとしか考えられません。

 もう13年前になりますが、父は北朝鮮へ向けた短波放送「しおかぜ」の最初の録音で以下のように訴えています。

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 美輪ちゃん、貴女は今どこにいるの?私はお父さんだよ。秋田正一郎だよ。

 急にいなくなってびっくりしています。もう20年になりますね。

 お母さんも始めは何があったのかと放心状態でしたが、いまは何とか元気で私と一緒に貴女といつ会えるかと首を長くして待っています。早く貴女のコーヒーを飲みたい。

 1985年12月4日の夜川西の家でお母さんが貴女からの電話で「今晩、Kさんのところでとまる」との声を聞いています。そして翌12月5日朝、貴女の靴とバッグが竹野町の弁天浜海岸で発見され、バッグの中から大阪駅発行の150キロまでの急行券と貴女の学生証等が発見されています。Kさんは「12月4日昼1時ごろ学校の校門付近で美輪さんと別れてから一度も会っていません」といっております。私たち両親には何が何だかわからないのです。

 もし返事をもらえるなら居場所だけでも、また元気かどうかも教えてください。待っています。

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 このメッセージは、ここへ来る事の出来ない特定失踪者の親世代全員の気持ちです。

 とはいえ、特定失踪者の親は、いなくなった子供を思い、日本が子供を取り返してくれると信じながら、年月とともに亡くなられています。特定失踪者のご家族にお会いするたび、今も北朝鮮に残された拉致被害者だけでなく、日本にいる多くのご家族の生活を変えてしまった拉致に憤りを覚えます。



 現在の父は認知症を患い、人との会話さえ難しくなりました。妹に会っても分かるでしょうか。父は今年3月87歳になりました。母も後数日で85歳になります。両親が生きているうちに妹が日本へ帰国し、両親と会えたら、両親はどんなに喜ぶ事でしょう。

日本が拉致された日本人を取り戻すため、各国の皆様のご協力をさらに続けていただけますようにお願い致します。



2019年5月10日





拉致被害者家族 国連本部シンポで協力呼びかけへ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190510/k10011911051000.html