昨日は、日本を守護する聖母マリアの聖母被昇天の祝日です。
拉致被害者の一刻も早い帰国、救出と平和を祈りました。
埼玉、川口市の藤田隆司さんは、「忘れないで特定失踪者 全国一斉活動」実行委員会の
代表です。川口市のお祭り会場で行われた啓発が記事になりました。
9月に「忘れないで特定失踪者 全国一斉活動」実行委員会に
「秋田美輪さんを救う川西市民の会」も参加いたします。
9月にまた街頭での啓発を行います。
「大阪ブルーリボンの会」も前回から参加されることになりました。
9月には政府の拉致再調査について、なんらかの報告がされるのではないかと
いわれています。 重要な時期となると思います
毎回、拉致定例署名の署名用紙は救う会大阪にその場でおわたしします。
資料やご自身でも署名を集めるので署名用紙を送ってほしいという方に
資料やお礼状を送付しています。
川西でも、ご自身でブルーリボンを購入されたり、署名活動をされたり
ご近所やお友達に教えたりされる方も多くおられます。
署名用紙、拉致問題の資料、ブルーリボンの購入方法など
送付ご希望の方は、 お送りしますので、ご連絡下さいませ
666-0125 川西市新田3-21-11 中曽千鶴子
TEL 072-776-8821
FAX 090-3656-3350
3月・6月・9月・12月の特定失踪者全国一斉活動の署名は
まとめて、今後は、藤田隆司さんの方に送付します。
街頭から上げる声(1)「国民の本気に期待」 埼玉
2014.8.13 02:26 (1/2ページ)
厳しい暑さの中、通りかかる一人一人に呼びかけを続ける藤田隆司さん=川口市

□藤田進さんの弟、藤田隆司さん
今月、川口市の祭り会場で行われた街頭活動。うだるような暑さの中、思いを込めるように通行人一人一人を見つめ、署名を呼びかけた。すべての家族を取り戻す鍵は世論。「日本国民の本気度」だと信じる。北朝鮮の再調査が進む今だからこそ改めて強く訴える。「全員を救出しないと解決ではない。国民の名誉、日本の国の在り方を世界に発信してほしい」と。
同時に抱く危機感はもちろん大きい。「交渉が素直に進むとは思えない。必ず、欺こうとするはずだ」。北朝鮮が拉致を外交上の“交渉材料”としてきたことにも憤る。また、日本政府の過去の対応も満足とは遠い。それでも今は、安倍政権の決意と覚悟に対して切実に期待を込める。
兄、進さん=失踪当時(19)=が足取りを絶ったのは昭和51年。平成15年以降、拉致の疑いが強まったが、政府の拉致認定はない「特定失踪者」だ。光が当てられなかった存在をずっと地道に伝えてきた。
先月、さいたま市で開かれた親子連れの交流イベント。拉致を啓発するブースで、夏休みの子供たちが真剣なまなざしでスピーチに聞き入った。「すべての日本人」を含む再調査をきっかけに、少しずつだが確かに関心は高まっている。
「小さい子たちに話すのは難しいが、拉致を知ろうとする思いを感じて熱が入った」。国内だけでなく、世界に向けて必死に訴えかけてきただけに、子供たちの熱い反応に喜びをにじませる。「同じことを許さないためにも若い世代に伝えることは大事だ」
昭和35年に失踪した叔父の慎さん=同(29)=も拉致濃厚とされる。警察当局が拉致の可能性を視野に捜査・調査する失踪者は860人に上る。「全体像がようやく明らかになりつつあるが、助けを待つ人はまだまだたくさんいる」
◇
「声」を上げ続ける人々がいる。埼玉にゆかりのある拉致被害者や特定失踪者の家族らは、この夏も酷暑の中でひたむきに呼びかけている。必ず救い出す-。固い決意を胸に街頭に立つ家族の横顔を追った。
街頭から上げる声(2)「再会への思い聞いて」 埼玉
2014.8.14 03:14 (1/2ページ)
「家族の声に少しでも耳を傾けていただければ」と願う横山木三子さん
特定失踪者家族 横山木三子さん(64)
「この人たちは悪いことをしたの?」。ある署名活動での一幕。拉致被害者や特定失踪者のパネルを見つめる幼い子供に、こう問いかけられた。「違うんだよ」。優しく答えながらも、拉致問題は本当に解決の方向に進んでいるのかと、焦りがいっそう募ってくる問いだった。子供でもテレビなどを通じて「拉致」を知っていた10年ほど前とは違うとも感じ、問題の風化に対する心配も尽きない。
昭和52年5月。金融機関に勤め、当時29歳だった兄の新木章さんは「買い物に行く」と言い残し、川口市の自宅を出たまま戻らなかった。以来、数十年もの年月が過ぎていく。
ある日、北朝鮮による日本人拉致疑惑を取り上げた新聞を目にした。平成9年、拉致被害者の家族会が結成された年だ。真相究明へ機運が高まりつつある中で、被害者を救出する活動に参加し始め、兄は特定失踪者として公開された。
かつては知る由もなかったが、身近に北朝鮮の工作員の影がちらついていたことを聞かされた。自宅周辺には川口市出身の田口八重子さん=拉致当時(22)=の関係先があるなど、「失踪」と北との接点がいくつもあったのだ。
「家族が元気なうち、少しでも情報がほしい」。願いとは裏腹に事態は進展していない。共に帰りを待ち続けた母、鈴子さんは6年に他界。兄の身辺整理のため裁判所に「失踪宣告」を申し立てたときは、例えようもない喪失感に包まれた。
特定失踪者の家族として「拉致の確証がない」苦しみとも戦ってきた。事態は膠着(こうちゃく)し、どの家族も高齢化している。「全員を取り戻すまで、一歩も引かないでほしい」
口数が少なく、まじめで親思いだった兄。ふと見せた優しさが、今も心に焼き付いている。「どうか人ごとと思わず、一人でも多くの方に家族の声を聞いていただきたい」。再会の日が来るまで、懸命に思いを伝えていく。
街頭から上げる声(3)「日本に帰るまで頑張って」 埼玉
2014.8.15 03:26 (1/2ページ)
娘と再会する日を信じて街頭に立つ佐々木アイ子さん=川口市内
□特定失踪者家族佐々木アイ子さん(75)
盛夏の川口市。拉致問題の解決へ向けた署名の呼びかけに、野球帽の少年が歩み寄った。ポリ袋に入った小銭を募金箱に注ぐ。「どうもありがとう。本当にうれしい」。はにかむ少年に感謝の気持ちを伝えた。「たくさんの思いやりが支えなんです」
27歳だった娘、佐々木悦子さんは平成3年4月、嫁ぎ先の浦和市(現さいたま市)の自宅から「会社に行く」と言い残して消息を絶った。当日、仕事は休みのはずだった。
「ただただ『どうしたのだろう』としか思えなかった」。高校卒業後、銀行に勤務。結婚して間もなくの失踪だ。わらにもすがる思いでテレビ番組に出演し、情報提供を呼びかけたこともあるが、足取りはまったく不明のままだった。
悦子さんは母の日や父の日に欠かさず贈り物をくれる親思いの「しっかり者」。夏場には毎年、家族で登山を楽しんだ。だが、失踪ですべてが変わった。「悦子さんのお葬式は済ませたのですか」。知人からこう聞かれたことまであった。
14年、北朝鮮が拉致を認め被害者が帰国したことが、埋もれかけた悦子さんの件を動かす契機となる。
拉致は実際、海沿いで多く発生していた。内陸の埼玉で「まさか」とは思ったが、特定失踪者問題調査会の荒木和博代表に連絡を取った。そして15年、週刊誌で悦子さんの“消息”が報じられる。「北朝鮮でよく似た女性を見た」。脱北した元特殊部隊員の証言で、拉致の疑いが一層強まった。
期待を寄せる今回の再調査にも「一歩進んだとは思うが、悦子が目の前に現れないと…」と不安は隠せない。体調を崩して8年に亡くなった夫、末記(すえき)さんの仏壇に「悦子を見守って」と祈る毎日だ。足腰を悪くして、街頭に立つのは過酷だが、それでも署名簿を持ち酷暑の中で声を上げる。「日本に帰るまで頑張って。母さんも頑張る」
拉致被害者の一刻も早い帰国、救出と平和を祈りました。
埼玉、川口市の藤田隆司さんは、「忘れないで特定失踪者 全国一斉活動」実行委員会の
代表です。川口市のお祭り会場で行われた啓発が記事になりました。
9月に「忘れないで特定失踪者 全国一斉活動」実行委員会に
「秋田美輪さんを救う川西市民の会」も参加いたします。
9月にまた街頭での啓発を行います。
「大阪ブルーリボンの会」も前回から参加されることになりました。
9月には政府の拉致再調査について、なんらかの報告がされるのではないかと
いわれています。 重要な時期となると思います
毎回、拉致定例署名の署名用紙は救う会大阪にその場でおわたしします。
資料やご自身でも署名を集めるので署名用紙を送ってほしいという方に
資料やお礼状を送付しています。
川西でも、ご自身でブルーリボンを購入されたり、署名活動をされたり
ご近所やお友達に教えたりされる方も多くおられます。
署名用紙、拉致問題の資料、ブルーリボンの購入方法など
送付ご希望の方は、 お送りしますので、ご連絡下さいませ
666-0125 川西市新田3-21-11 中曽千鶴子
TEL 072-776-8821
FAX 090-3656-3350
3月・6月・9月・12月の特定失踪者全国一斉活動の署名は
まとめて、今後は、藤田隆司さんの方に送付します。
街頭から上げる声(1)「国民の本気に期待」 埼玉
2014.8.13 02:26 (1/2ページ)
厳しい暑さの中、通りかかる一人一人に呼びかけを続ける藤田隆司さん=川口市

□藤田進さんの弟、藤田隆司さん
今月、川口市の祭り会場で行われた街頭活動。うだるような暑さの中、思いを込めるように通行人一人一人を見つめ、署名を呼びかけた。すべての家族を取り戻す鍵は世論。「日本国民の本気度」だと信じる。北朝鮮の再調査が進む今だからこそ改めて強く訴える。「全員を救出しないと解決ではない。国民の名誉、日本の国の在り方を世界に発信してほしい」と。
同時に抱く危機感はもちろん大きい。「交渉が素直に進むとは思えない。必ず、欺こうとするはずだ」。北朝鮮が拉致を外交上の“交渉材料”としてきたことにも憤る。また、日本政府の過去の対応も満足とは遠い。それでも今は、安倍政権の決意と覚悟に対して切実に期待を込める。
兄、進さん=失踪当時(19)=が足取りを絶ったのは昭和51年。平成15年以降、拉致の疑いが強まったが、政府の拉致認定はない「特定失踪者」だ。光が当てられなかった存在をずっと地道に伝えてきた。
先月、さいたま市で開かれた親子連れの交流イベント。拉致を啓発するブースで、夏休みの子供たちが真剣なまなざしでスピーチに聞き入った。「すべての日本人」を含む再調査をきっかけに、少しずつだが確かに関心は高まっている。
「小さい子たちに話すのは難しいが、拉致を知ろうとする思いを感じて熱が入った」。国内だけでなく、世界に向けて必死に訴えかけてきただけに、子供たちの熱い反応に喜びをにじませる。「同じことを許さないためにも若い世代に伝えることは大事だ」
昭和35年に失踪した叔父の慎さん=同(29)=も拉致濃厚とされる。警察当局が拉致の可能性を視野に捜査・調査する失踪者は860人に上る。「全体像がようやく明らかになりつつあるが、助けを待つ人はまだまだたくさんいる」
◇
「声」を上げ続ける人々がいる。埼玉にゆかりのある拉致被害者や特定失踪者の家族らは、この夏も酷暑の中でひたむきに呼びかけている。必ず救い出す-。固い決意を胸に街頭に立つ家族の横顔を追った。
街頭から上げる声(2)「再会への思い聞いて」 埼玉
2014.8.14 03:14 (1/2ページ)
「家族の声に少しでも耳を傾けていただければ」と願う横山木三子さん
特定失踪者家族 横山木三子さん(64)
「この人たちは悪いことをしたの?」。ある署名活動での一幕。拉致被害者や特定失踪者のパネルを見つめる幼い子供に、こう問いかけられた。「違うんだよ」。優しく答えながらも、拉致問題は本当に解決の方向に進んでいるのかと、焦りがいっそう募ってくる問いだった。子供でもテレビなどを通じて「拉致」を知っていた10年ほど前とは違うとも感じ、問題の風化に対する心配も尽きない。
昭和52年5月。金融機関に勤め、当時29歳だった兄の新木章さんは「買い物に行く」と言い残し、川口市の自宅を出たまま戻らなかった。以来、数十年もの年月が過ぎていく。
ある日、北朝鮮による日本人拉致疑惑を取り上げた新聞を目にした。平成9年、拉致被害者の家族会が結成された年だ。真相究明へ機運が高まりつつある中で、被害者を救出する活動に参加し始め、兄は特定失踪者として公開された。
かつては知る由もなかったが、身近に北朝鮮の工作員の影がちらついていたことを聞かされた。自宅周辺には川口市出身の田口八重子さん=拉致当時(22)=の関係先があるなど、「失踪」と北との接点がいくつもあったのだ。
「家族が元気なうち、少しでも情報がほしい」。願いとは裏腹に事態は進展していない。共に帰りを待ち続けた母、鈴子さんは6年に他界。兄の身辺整理のため裁判所に「失踪宣告」を申し立てたときは、例えようもない喪失感に包まれた。
特定失踪者の家族として「拉致の確証がない」苦しみとも戦ってきた。事態は膠着(こうちゃく)し、どの家族も高齢化している。「全員を取り戻すまで、一歩も引かないでほしい」
口数が少なく、まじめで親思いだった兄。ふと見せた優しさが、今も心に焼き付いている。「どうか人ごとと思わず、一人でも多くの方に家族の声を聞いていただきたい」。再会の日が来るまで、懸命に思いを伝えていく。
街頭から上げる声(3)「日本に帰るまで頑張って」 埼玉
2014.8.15 03:26 (1/2ページ)
娘と再会する日を信じて街頭に立つ佐々木アイ子さん=川口市内
□特定失踪者家族佐々木アイ子さん(75)
盛夏の川口市。拉致問題の解決へ向けた署名の呼びかけに、野球帽の少年が歩み寄った。ポリ袋に入った小銭を募金箱に注ぐ。「どうもありがとう。本当にうれしい」。はにかむ少年に感謝の気持ちを伝えた。「たくさんの思いやりが支えなんです」
27歳だった娘、佐々木悦子さんは平成3年4月、嫁ぎ先の浦和市(現さいたま市)の自宅から「会社に行く」と言い残して消息を絶った。当日、仕事は休みのはずだった。
「ただただ『どうしたのだろう』としか思えなかった」。高校卒業後、銀行に勤務。結婚して間もなくの失踪だ。わらにもすがる思いでテレビ番組に出演し、情報提供を呼びかけたこともあるが、足取りはまったく不明のままだった。
悦子さんは母の日や父の日に欠かさず贈り物をくれる親思いの「しっかり者」。夏場には毎年、家族で登山を楽しんだ。だが、失踪ですべてが変わった。「悦子さんのお葬式は済ませたのですか」。知人からこう聞かれたことまであった。
14年、北朝鮮が拉致を認め被害者が帰国したことが、埋もれかけた悦子さんの件を動かす契機となる。
拉致は実際、海沿いで多く発生していた。内陸の埼玉で「まさか」とは思ったが、特定失踪者問題調査会の荒木和博代表に連絡を取った。そして15年、週刊誌で悦子さんの“消息”が報じられる。「北朝鮮でよく似た女性を見た」。脱北した元特殊部隊員の証言で、拉致の疑いが一層強まった。
期待を寄せる今回の再調査にも「一歩進んだとは思うが、悦子が目の前に現れないと…」と不安は隠せない。体調を崩して8年に亡くなった夫、末記(すえき)さんの仏壇に「悦子を見守って」と祈る毎日だ。足腰を悪くして、街頭に立つのは過酷だが、それでも署名簿を持ち酷暑の中で声を上げる。「日本に帰るまで頑張って。母さんも頑張る」